論理の実践

学説史的関心が旺盛なEM/CA研究者は多いが、彼らに関してどうにも疑問なのは、彼らが、様々な社会学文献、哲学文献に展開される議論の論理構造に対して、およそEM的な知的訓練を受けた人間とも思えぬ、恐ろしくナイーブな態度を取っていることである。

彼らは様々な文献――EM文献、社会学文献、現象学文献、分析哲学文献etc――の論理構造を抽出して比較考量し、同じだとか違うとか、影響関係があるとかないとか、延々と議論する。まあ、学問なんて突き詰めれば、好き嫌いだから、そういう趣味の人がいてもいいとは思うのだが、その趣味をもって「私はEMのエキスパートです」みたいな顔をされると、「それって大切だけど、EM研究者にとっては余技でしょ」とか思ってしまうわけで・・・。やっぱり、余技をするときは所詮余技という自覚を持って欲しいなと思う。

 

彼らが勘違いしてしまう理由を昔から考えているのだが、論理(議論の論理構造)に対するEM的態度というものを理解していないからではなかろうか?、と最近は考えるようになった。

EMにとって、論理は理念であり抽象であって、いかなる場面においてもその具現化は実践的達成である。あらゆる文献はこの実践的達成に指向している。そこでは読み手に対するデザイン(受け手デザイン)が駆使され、効果的な図表、トランスクリプトが配置され・・・つまりは様々なワークが組織される。例えば、「最初に、テーマに関する過去業績のサーベイを行い、次いでトランスクリプトを配置して、非明示的にそのトランスクリプトを自らのテーマに沿って読めという教示を行う」なんて、EMCA文献にありがちだが、これはワークによる論理の立派な達成だろう。

論理とはワークによる達成であり、まずそのワークにこそ注意を向けてこそEM研究者を名乗れると思うのだが、様々な文献(EMCA文献を含む!)に対して、日本のEMCA研究者はこうした注意関心を向けることができているのだろうか? ‘EMCAの’論理はトランスクリプトの配置に負うところが非常に大きい。効果が絶大なので、とりあえずトランスクリプトを載せておけばいいや(EMCA文献として読んでくれるだろう)と考える人間が大量に現れるのはよく分かる。しかし、ワークとしてトランスクリプトを考える人間がいてもいいのではなかろうか?(・・・ということを5年以上前から言っているのだが、反応してくれた方は片手で数えられるほど。)

 

実践の論理はもちろんだが、論理の実践がもっと考えられていいと思う。