総括

①「鉄壁の守備を敷いた上でカウンター」という最近主流の戦術の強さが証明された。決勝戦は基本的にこのような戦術を取るチームの戦いだった。フランスは結果的にこの戦術を採用することとなった感があるが、優勝したイタリアは(この戦術の発祥の地でもあるが)この戦術を突き詰めたチームだった。

前回、ブラジルが優勝した際、クライフ(だったかな?)はこれでフットボールが10年過去に戻ってしまうと(つまり、暗に、日韓WCは水準の低い大会だったと)言ったが、今大会はこれを現在に引き戻す大会だったとも言えるだろう。

*考えてみると、日本は日韓WCの浮かれムードそのままに(やっぱブラジル最高!、個人技最高!、サンバ最高!って)ジーコを監督に迎えたわけだけど、(ジーコが出た82年大会ブラジルの監督だった)サンターナの信奉者であるジーコを監督に選ぶということは四半世紀前のフットボールに日本が出会うようなものだったんだろう。でも、四半世紀前のジーコにも教えられることがいっぱいあったんだから、日本のフットボールの現実はそれ以前、半世紀前くらいの水準ってことかあ。そう考えると納得できることっていっぱいあるよなあ。(ジーコは82年イタリアに負けたわけだけど、結局、その負けたことの意味を反省してないんだろうなあ。ジーコは今度トルコのフェネルバフチェで監督するらしいけど、結果が見物だよ。)

②「鉄壁の守備を敷いた上でカウンター」といっても、それはかつてのイタリア・カテナチオと同一視できるものではない。リッピは「我々のことをカテナチオと呼ぶ者は自分がフットボールについてコメントする資格があるかどうか考えてみる必要がある」と言っていたが、これはその通りだと思う。かつてのイタリア・カテナチオは中盤、前線を犠牲にしても資源をまず守備に投下していたが、優勝したイタリアは、中盤の構成力、前線の攻撃力においても、他チームにまったくひけを取らないどころか、それを凌駕していた。

この点で、単純な攻撃的フットボールvs守備的フットボールなどという対立軸は今や意味がなくなってきていると考えるべきなのだろう。見た目攻めているチームが本当に優勢に攻撃しているわけではないし、見た目守っているチームが本当に劣勢で守るしかないというわけではない。(この典型がイタリアvsウクライナ戦。イタリアはこのゲームで開始直後に先制点を取りその後8割方引いて‘守っていた’が、カウンターで得点を重ね終わってみれば3−0。しかも終盤にはピルロガットゥーゾをサブに代えてしまう。いくらウクライナが‘攻撃している’としてもこんなものは‘攻撃させられている’に過ぎない。サブを出されそれでも点が取れず最終的に3−0負けを喫して‘屈辱的な完敗’を実感しない選手がもしいたら、そいつは相当のボケ、というかフットボール選手をやめた方がいいと言うべきだろう。報道ステーションで女子アナがこのゲームに関して「点差ほど力の差はありませんでしたよネェ」とか言ったのを、北沢豪が「それにしても、イタリアはゲームプラン通りの戦いでしたね」と流したのを見て、「北沢、お前も苦労してるな」と思ったのは私だけではあるまい。)また、敵陣内深くでなされる守備(プレッシング)はむしろ攻撃的であると言うべきだろうし、ペナルティエリアの周辺でボールをいくら回していても必ずしも攻撃的とは言いかねる場合もある。攻撃と守備を二分法的に捉える思考はもはや前時代的なものになりつつある。問題は、攻撃でもある守備、守備でもある攻撃をいかに組織的に実現するかにある。

*と、こう考えてくると「イタリアは守備的だ」という依然多くの者(ヒディング、ヴェンゲルといった有名監督を含め)が言う非難めいた言葉は何を言っているのか、結構分からなくなる。1確かに、イタリアはブラジルのように「理想は攻撃し続けることによって守備を不要とすること」などという哲学を持ってはいないから、その点では守備的だろう。しかし、これはブラジル以外のどのチームだって同じはず。それとも、2「守っている」時間が長いということか?確かにイタリアは長時間一見「守っている」。が、上に書いたように、見た目は内実を反映していない場合があるということを忘れるわけにはいかないだろう。それとも、3見た目も攻めてるようにしないといかんよ、と言っているのだろうか?でも、選手の体力の問題として90分全部100%の力を出し切って走り回ることが不可能である以上、その90分をどう使うかは戦術の問題になる。90分を60%の体力で攻め続けるのと、45分を90%の体力で攻め残りの45分はカウンター狙いで省エネフットボールをするというのは、どちらが攻撃的とも守備的とも言い切れないんじゃないか?それとも、4そもそも「カウンター狙い」という戦術が消極的と言うことか?でも、これは今やセリエAのクラブチームは無論、チェルシーにしろリヴァプールにしろ多くのチームの基本なんだから、とりわけイタリアがとやかく言われるようなことじゃない。(ヴェンゲルはイタリアは守備的だって繰り返し言ってるけど、フランスの対ポルトガル戦の後半なんかまさに古典的な「カテナチオ+カウンター」の戦い方だった。この大会のフランスが最終的にイタリアそっくりになったのは明かだ。ヴェンゲルは「イタリアは勝利を盗んだ」とか訳の分からないこと言ってないで、このことをちゃんと指摘するべきだろう。)結論;「イタリアは守備的だ」という言葉の内実はよく分からない!、あるいは、リッピの「我々のことをカテナチオと呼ぶ者は〜」という言葉の‘カテナチオ’を‘守備的’と置き換えてもよい!

*攻撃と守備の単純な二分法が過去のものとなりつつあるのに応じて、カウンター・フットボールvsポゼッション・フットボールという二分法も過去のものとなりつつあるように思う。そして、基本的にこの無効化はカウンターフットボールがポゼッション・フットボールの長所を取り入れる形で進化、主流化したことによって推進されているのだと思う。バルサの躍進に絡めてポゼッション・フットボールを再評価するようなコメントもなされているが、どうもこの種の言葉には疑問を感じてしまう。その理由は、1例えばACミランなどといったチームがポゼッション技術において見劣りがするとは思えないこと(今大会のイタリアも中盤の構成力では抜きんでていた)、2バルサの成功はポゼッション・フットボールの成功というより、ロナウジーニョという天才の成功(あるいは、ロナウジーニョという天才を生かす戦術の成功)という気がするということだ。バルサに絡めてポゼッション・フットボールを顕揚する人間は、自らがカウンター・フットボールと定義するチームがボール・ポゼッションにおいて劣っていると言えるのか?、バルサのようなチームの得点がむしろ天才的個人の技に依存しているのではないか?ということを考えた方がいいと思う。私は、現在のヨーロッパクラブの戦術的対立はカウンター・フットボールvsポゼッション・フットボールと見るより、(ミランとかが具現化しているような)新カウンター・フットボールvs(バルサが具現化しているような)天才中心フットボールといった対立で見る方がまだ正確なのではないかと思っている。(後者にはバルサの他、リケルメビジャレアルが典型的で、アンリのアーセナルなんかもこれに入りそう。)なお、私はこの両者のどちらかが優れているなどと言うつもりはさらさらない。天才中心フットボールはその天才の技を見る楽しさがあるし、新カウンター・フットボールはその統率された組織戦術を見る楽しさがある。ただ、特定個人に依存する戦術はその個人のパフォーマンスにチーム・パフォーマンスが依存してしまうという点でリスキーではあると思う。だから、ほとんどのクラブは新カウンター・フットボールを指向するのだろうと思う。

この問題の解き方が基本的には今の多様なチームカラーを決めているのだろう。リッピのイタリアが具現していたフットボールは、アンチェロッティACミランカペッロユベントスはもちろん、モウリーニョチェルシーベニテスリヴァプールのそれとも同種のものだ。彼らはみなサッキイズムの信奉者という点で共通している。恐らく彼らはサッキの考案をいかに展開するかという点でみな頭を悩ませているのだろう。今大会は、この問題の回答例(無論、それは最新のというわけにはいかないが)の展示会だったのかもしれない。

③展示された回答例には多くの着目点があるのだろうが、私にはゲームメーカーをどう解釈するかという点が気になった。

今大会の有力チームはゲームメーカーに関する解釈で、アルゼンチンとスペインとを両極とするスペクトル上に並べることが出来るように思う。アルゼンチン・ペケルマンリケルメを明確に古典的な攻撃専従のゲームメーカーとして定義していた。(ペケルマンは、さすがにリケルメをトップ下に置くと、相手DFにマンマークされる可能性が高いし、またサイドからの攻撃の有効性が増大しているため、左サイドで起用していたが、リケルメはほとんど走らないしドリブル突破もしない。ひたすらパッサーである。)これと対極をなすのが、スペイン。スペインには攻撃時‘要’となるような選手は一切いない。可能な限りボールを早く回して敵の守備組織を壊そうとする。これは明確なゲームメーカーの否定である。で、この両国の間に主要国を置いてみる。まず、アルゼンチンとかなり近いところにいるのが、トップ下に走れず守れず(結果的に)ほとんど攻撃専従となってしまったジダンを置くフランス。真ん中あたりが、最近の新傾向だが、プレスのかけにくいボランチ位置にピルロを置くイタリア。守備にも当然貢献するピルロは新しいゲームメーカーの解釈を示している。ポルトガル、ドイツなどはそれぞれデコ、バラックがいるとはいえかなりスペインに近い。ついでに、ヨーロッパ主要クラブをこのスペクトル上に置いてみると、バルサロナウジーニョという何でも出来る天才がいるので、このスペクトルの大部分をカバーしてしまう。バルサと同じタイプを示すのがこれまた何でも出来るアンリのアーセナルロナウジーニョやアンリは(ピルロとは違った)ゲームメーカーの進化形態といったところなのだろう。ピルロのいるACミランは当然イタリアと同じ位置で、ユーベ、チェルシーリヴァプールポルトガル、ドイツのあたりといった感じか?(だから、チェルシーバラックがチームに即座に順応できることを期待できるということになる。)

こうやって考えると、ゲームメーカーを置かないのが最近の傾向とか言われても、それほど単純ではないのが分かる。ゲームメーカーとしての能力がある選手がいる以上その選手の能力を最大限に発揮させるというチーム戦術もあろうし(アルゼンチンの戦術はリケルメという天才を何しろ生かすことを考えてのものだろうし、フランスなどはジダンがいるからその能力を生かすためにはこうせざるを得なかったという感じがする)、反対にその能力がある選手がいたとしてもボール回しの速度を目指すチーム戦術もあるだろう(デコとかバラックはチーム戦術でボールを長持ちしないようにしていたと思う)。さらにまた、ゲームメーカーの新しい解釈を具現化してみせるというチーム戦術もある。

どういうタイプがいいのかは分からない。チーム戦術を熟成させることが出来るクラブチームと、促成栽培しなければならない代表チームではまたずいぶん事情が違うことだろう。また、トーナメント形式の大会と各国のリーグ戦とでも事情はずいぶん違う。また何より、ゲームメーカーとして優秀な才能を持っている選手がいるかどうかが何より重要でもあるだろう。ただ、今年はこれでCLでバルサ(+アーセナル)、WCでイタリア(+フランス)と、中庸を行くチームが大きな大会での優勝に絡んだ。現段階では、古典的ゲームメーカーを置く戦術は無論、その逆のゲームメーカーを置かないスピード至上主義の戦術よりも、ボールの中継点ともなれる新しいタイプのゲームメーカー(古典的なゲームメーカーとハイスピードのパスワークの中継点との二重役割をこなせる選手)を置いてゲームを時間-空間的にコントロールするような戦術(今のイタリア、クラブではバルサアーセナルミランなど)の方が有効であるような気がしてしょうがない。ていうか、見ていてこれが一番楽しい。