東京オリンピックとフーコー

フーコーの「汚名に塗れた人々の生La vie des hommes infames」(Foucault[1977=2000])という小論は、フーコーが言葉というものにいかなる視線を注ごうとしているのか、非常に端的に示しているという点において、貴重なテクストである。

このテクストはよく知られるように、17~18世紀(古典主義時代)の言説を、「慎重に構成された、明確に確定された目的めいたものを持たないままに」収集構成した選文集の序文である。フーコーはその冒頭、次のような18世紀初頭の収監請願承認文書を示し、この「《ヌーヴェルnouvelle[短編小説/ニュース]》が、二百年の時と半ばの沈黙を超えて突如現れた時、普通に文学と呼びならわされているもの以上に私は心の琴線を揺さぶられた」と語る。

 マチュラン・ミラン、一七〇七年八月三十一日シャラントン施療院収監――〈絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、夥しく訴訟を起こし、高利で金を貸しつけ資産を遣い果たし、その哀れな心を 見知らぬ街路に彷裡わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む〉」。
 「ジャン・アントワーヌ・トゥザール、一七〇一年四月二十一日ビセートル療狂院収監――〈棄教せるフランシスコ派修道僧、謀叛人、より大いなる罪科の可能性あり、男色者となり或いは出来得れば無神論者とも成り得んか――冒涜の怪物、この者を自由のままに放置せしよりも抹消せむことを厭うことなし〉。

なぜかと言えば、これら言説がまさに「強度intesité[intensity]」を持つから。

ここで扱う十七世紀と十八世紀のテクストは(とりわけ、それに引き続くことになる行政と警察の陳腐さにそれらを比較して見ると)或る閃光éclatを放っている。それらは行文の周囲に一種の輝きと暴力性を示しており、それが、少なくとも私たちの目には、扱われる事件の倭小さやその意図の何とも恥ずべき凡庸さと対照を成している。そこでは哀れなほど卑小な生が、それらをもっとも悲劇的なものにふさわしいと思われる呪詛と誇張を以て書き込まれている。おそらくはコミカルとも言うべき効果。さして意味もなく珍しくもない無秩序の周囲に、天と地に満てる荘重さで貫かれたような言葉の力を動員するその様子には、何がしかの頓狂さがある。

そして、ここからフーコーが問いかける問題はこうである。「古典主義時代における、日常的なものを巡るかくも誇張された演劇化は何故のものなのか」、と。これに対するフーコーの回答は端的に言えば、君主権力の出現とその日常生活への接触の故、である。フーコーは、言説の強度――つまりある種の言葉の様相――の中に、言説の強度として、言説の強度に関わる権力を見た。

日常的なものに対する権力の関わりとして、キリスト教世界は、その大きな部分を、告解の周囲に形成して来た。………ところでしかし、十七世紀の末と指定し得る時期以降、その告解のメカニズムは機能のまったく異なる別のものによって枠付け直され、拡張されて行く。もはや宗教的配置ではなくて行政的配置。すなわち、許しではなくて記載。………すなわち、告発、嘆願、尋問、報告、密告、調書。そして、これらを通して語られたものはすべて文書に記載され、集積され、ファイル記録や保存文書を形成することになる。自ら消滅しつつ過誤を消滅させるものとしての懺悔的告解、そこにおける声の一回性と瞬時性は、以降複数の声によって置き換えられ、文書の膨大な集積の中に配置され、かくして、世界のあらゆる諸悪の絶え間ない蓄積とともに、時を通して一種のメモワールを形成して行くことになるのである。悲惨と過誤からなる微細な悪はもはや、告解のほとんど聞き取れない声の信任によって天へと送り届けられるということはなくなる。それは書き取られた痕跡のかたちで地の上に累積されて行くのである。そこにあるのは権力とディスクール[言説]と日常との間に打ち立てられたまったく別のタイプの関係であり、日常を支配し書式化するまったく別のやり方である。日常の生に対する新たな演劇化が生まれる。そのための最初の用具は、アルカイックだがすでに複雑化したものであり、それについてはご存じの通りである。すなわち、請願書、監禁命令封印状或いは王の命令、それに応じた多様な監禁、報告書、警察の決裁書。………

言うまでもなく、権力は晩年のフーコーの思考の核心である。「汚名に塗れた人々の生」というテクストはその権力の問題への通路を指し示したものとなっている訳だが、ここで注目すべきはその通路が言説の強度という問題において開かれているということである。多くの研究者の目には言説の強度などという問題は些末と映るかもしれないが、フーコーにおいて、言説の強度という問題は決して些末な問題などではない。私たちがフーコー‘とともに’考えようとするなら、どれほど些末と思われようとこの問題を真剣に考えねばならない。

 

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東京オリンピックに関わる(関わった)、現代の「汚名に塗れた人々の生」を、永遠に記録しようとするかのように、閃光を纏い、過剰な強度を示しつつ、ネット上に参集、集積する言葉たちを見て、ふと、フーコーを思い出した。