FUKU-cat died(2)

ペットロス・・・言葉は当然知っていたが、リアルに知っていたわけではない。

リアルに知る時が来た。

 

昨日夕方、フクの遺体を近所の霊園で荼毘に付し、小さな遺骨を見たとき何かコントロールが壊れた。

それから今日一日、2時間おきに涙が延々と流れる。

 

思えば、フクは我が家の規律の基礎だった。

時間にうるさい猫で、毎日朝7時、昼12時、夕方6時と、正確な時報のように、リビングに来い、ご飯を食べようとニャーニャー言った。

しかも、私かYかどちらかが、リビングに行かないと、わざわざ私かYの部屋まで迎えに来て、お前も来いとニャーニャー言った。

食事は全員が揃わないといけないという規律を持った猫だった。

 

そして、食事が終わると、それを見計らったように、必ず1日に3回私の膝の上に跳び上がってまったりして、団らんの時間を作ってくれた。

だから、フクは我が家のコミュニケーションの軸でもあった。

 

Yは、フクがこの家の主(ヌシ)だったと言ったが、まさにその通りだ。

フクが死んで、我が家は規律の基礎も、コミュニケーションの軸もなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

FUKU-cat died

フク(猫)が今朝死んだ。

 

20歳4ヶ月、人間なら100歳超というところか。

昨年3月に母親が死に、2年連続で身内から葬式である。

 

ここ1ヶ月ほどとりわけ体調が悪く、

強度の便秘となって、食欲もなくなり、

昔は6キロあった体重も2キロを切って、

病院に頻繁に通っていた。

 

でも、とりあえず昨日は少しだがご飯も食べていたのに・・・。

 

結局、逝ってしまった。

 

思い出が走馬燈のように流れるという陳腐な台詞をリアルに体感する。

喪失感が尋常じゃない。

 

R.I.P.

 

実体化への意志

最近、「気づき」とか「学び」とかいう言葉をよく目にする、耳にする。似たような言葉では「傾聴」なんてのもある。これも流行ってるみたいだ。

「気づきを得られました」とか「学びが多く・・・」とか「傾聴を通じて・・・」とか・・・。

なぜ「気づく」「学ぶ」ではいけないのか? なぜ「よく相手の話を聞く」ではいけないのか?

もちろんこうした言葉を使う人に他意はまったくないのだが、個人的にはどうにも居心地が悪い。どこかに人間の活動(実践)を実体化しようとする意志を感じるというか・・・。

これらの言葉は誰がどういう目的で、使い始めたのだろう? その内調べてみたい。

東京オリンピックとフーコー

フーコーの「汚名に塗れた人々の生La vie des hommes infames」(Foucault[1977=2000])という小論は、フーコーが言葉というものにいかなる視線を注ごうとしているのか、非常に端的に示しているという点において、貴重なテクストである。

このテクストはよく知られるように、17~18世紀(古典主義時代)の言説を、「慎重に構成された、明確に確定された目的めいたものを持たないままに」収集構成した選文集の序文である。フーコーはその冒頭、次のような18世紀初頭の収監請願承認文書を示し、この「《ヌーヴェルnouvelle[短編小説/ニュース]》が、二百年の時と半ばの沈黙を超えて突如現れた時、普通に文学と呼びならわされているもの以上に私は心の琴線を揺さぶられた」と語る。

 マチュラン・ミラン、一七〇七年八月三十一日シャラントン施療院収監――〈絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、夥しく訴訟を起こし、高利で金を貸しつけ資産を遣い果たし、その哀れな心を 見知らぬ街路に彷裡わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む〉」。
 「ジャン・アントワーヌ・トゥザール、一七〇一年四月二十一日ビセートル療狂院収監――〈棄教せるフランシスコ派修道僧、謀叛人、より大いなる罪科の可能性あり、男色者となり或いは出来得れば無神論者とも成り得んか――冒涜の怪物、この者を自由のままに放置せしよりも抹消せむことを厭うことなし〉。

なぜかと言えば、これら言説がまさに「強度intesité[intensity]」を持つから。

ここで扱う十七世紀と十八世紀のテクストは(とりわけ、それに引き続くことになる行政と警察の陳腐さにそれらを比較して見ると)或る閃光éclatを放っている。それらは行文の周囲に一種の輝きと暴力性を示しており、それが、少なくとも私たちの目には、扱われる事件の倭小さやその意図の何とも恥ずべき凡庸さと対照を成している。そこでは哀れなほど卑小な生が、それらをもっとも悲劇的なものにふさわしいと思われる呪詛と誇張を以て書き込まれている。おそらくはコミカルとも言うべき効果。さして意味もなく珍しくもない無秩序の周囲に、天と地に満てる荘重さで貫かれたような言葉の力を動員するその様子には、何がしかの頓狂さがある。

そして、ここからフーコーが問いかける問題はこうである。「古典主義時代における、日常的なものを巡るかくも誇張された演劇化は何故のものなのか」、と。これに対するフーコーの回答は端的に言えば、君主権力の出現とその日常生活への接触の故、である。フーコーは、言説の強度――つまりある種の言葉の様相――の中に、言説の強度として、言説の強度に関わる権力を見た。

日常的なものに対する権力の関わりとして、キリスト教世界は、その大きな部分を、告解の周囲に形成して来た。………ところでしかし、十七世紀の末と指定し得る時期以降、その告解のメカニズムは機能のまったく異なる別のものによって枠付け直され、拡張されて行く。もはや宗教的配置ではなくて行政的配置。すなわち、許しではなくて記載。………すなわち、告発、嘆願、尋問、報告、密告、調書。そして、これらを通して語られたものはすべて文書に記載され、集積され、ファイル記録や保存文書を形成することになる。自ら消滅しつつ過誤を消滅させるものとしての懺悔的告解、そこにおける声の一回性と瞬時性は、以降複数の声によって置き換えられ、文書の膨大な集積の中に配置され、かくして、世界のあらゆる諸悪の絶え間ない蓄積とともに、時を通して一種のメモワールを形成して行くことになるのである。悲惨と過誤からなる微細な悪はもはや、告解のほとんど聞き取れない声の信任によって天へと送り届けられるということはなくなる。それは書き取られた痕跡のかたちで地の上に累積されて行くのである。そこにあるのは権力とディスクール[言説]と日常との間に打ち立てられたまったく別のタイプの関係であり、日常を支配し書式化するまったく別のやり方である。日常の生に対する新たな演劇化が生まれる。そのための最初の用具は、アルカイックだがすでに複雑化したものであり、それについてはご存じの通りである。すなわち、請願書、監禁命令封印状或いは王の命令、それに応じた多様な監禁、報告書、警察の決裁書。………

言うまでもなく、権力は晩年のフーコーの思考の核心である。「汚名に塗れた人々の生」というテクストはその権力の問題への通路を指し示したものとなっている訳だが、ここで注目すべきはその通路が言説の強度という問題において開かれているということである。多くの研究者の目には言説の強度などという問題は些末と映るかもしれないが、フーコーにおいて、言説の強度という問題は決して些末な問題などではない。私たちがフーコー‘とともに’考えようとするなら、どれほど些末と思われようとこの問題を真剣に考えねばならない。

 

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東京オリンピックに関わる(関わった)、現代の「汚名に塗れた人々の生」を、永遠に記録しようとするかのように、閃光を纏い、過剰な強度を示しつつ、ネット上に参集、集積する言葉たちを見て、ふと、フーコーを思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Schopenhauer and Shohei Ohtani

MLB公式HP記事を見ていたら、こんなことが書いてある。なかなかしゃれたことを言う。

Arthur Schopenhauer, the philosopher, once wrote, “Talent hits a target no one else can hit. Genius hits a target no one else can see.” That is Ohtani, the Sho Hey Kid.

 

www.mlb.com

夜中に

高崎の医師が半泣きで電話してくる。

「2月頃からお母様はもう食事が出来ていません。アルツハイマー認知症の末期症状で、食事を食事と認識していないんです。点滴してもむくむだけで…。恐らく3月末には…。」

 

いろいろと準備をしないといけない。

参考文献

昔、ある論文集に寄稿した際、編者の――今はもう勇退されてしまった――ある先生に、膨大詳細なコメントをもらうと同時に、海外参考文献のページが違うと指摘されたことがあった。

出版記念パーティで会った際、「寄稿論文全部、参考文献参照ページを調べてるんですか?」と聞いたら、あっさり「うん、編者だからね」と当然のように言うので、驚くとともに、まさか参考文献のページなんか誰もわざわざ見ないだろうと、高を括って適当に書いていた自分が恥ずかしかった。

編集裏話を聞くと、寄稿依頼をしながら、内容のレベルが低いというので掲載を見送ったものがあると、これまた何気なく言うので、これも驚いた。

この先生には、翻訳を頼まれたときには、文末表現(「~だ」「~である」「~のである」)の使い方を随分注意された記憶もある。

自分とは理論的には論争相手だったが、学問に対する厳格さではまったく頭が上がらなかった。

今こんな先生はいるのだろうか?

 

 

特に海外参考文献は昔と今とではその機能がまったく異なってしまった。

昔、読み手は、論文に挙示される海外参考文献とそのページを、よっぽどのことがなければ、調べなんかしなかった。

持ってない本をわざわざ図書館に行きそのページを調べるなんて、持っている本だったとしても埃にまみれた本を引きずり出してきてページを探すなんて、よっぽど自分の研究と関係しない限り、しなかった。

海外参考文献はとりあえず並べることで、もっぱら筆者の権威を高める機能を果たす装置だった。

でも、今は違う。

読み手は、論文を読みながら、‘ちょっと’気になる海外参考文献があれば、どんな本、どんな論文でもネット上で即座に見ることが出来るし、その本、論文の中を自由自在に検索も出来る。

「こんな文献、誰も持ってないだろうし、見ないだろう」なんて通用しない。

だから、軽い気持ちで適当に訳す、適当にまとめる、適当に引用する・・・なんてことをすれば、即座に書き手としての能力を疑われるリスクが生じる。

今や、海外参考文献は、筆者の権威を失墜させる機能を格段に上昇させた、危険な装置である。

 

 

真面目に論文読むと、これが結構あるんです。今日も・・・(残念)。

海外参考文献、軽い気持ちで、適当な要約とかすると能力を疑われます。並べればいいってもんじゃありません。お互い、気をつけましょう。