参考文献

昔、ある論文集に寄稿した際、編者の――今はもう勇退されてしまった――ある先生に、膨大詳細なコメントをもらうと同時に、海外参考文献のページが違うと指摘されたことがあった。

出版記念パーティで会った際、「寄稿論文全部、参考文献参照ページを調べてるんですか?」と聞いたら、あっさり「うん、編者だからね」と当然のように言うので、驚くとともに、まさか参考文献のページなんか誰もわざわざ見ないだろうと、高を括って適当に書いていた自分が恥ずかしかった。

編集裏話を聞くと、寄稿依頼をしながら、内容のレベルが低いというので掲載を見送ったものがあると、これまた何気なく言うので、これも驚いた。

この先生には、翻訳を頼まれたときには、文末表現(「~だ」「~である」「~のである」)の使い方を随分注意された記憶もある。

自分とは理論的には論争相手だったが、学問に対する厳格さではまったく頭が上がらなかった。

今こんな先生はいるのだろうか?

 

 

特に海外参考文献は昔と今とではその機能がまったく異なってしまった。

昔、読み手は、論文に挙示される海外参考文献とそのページを、よっぽどのことがなければ、調べなんかしなかった。

持ってない本をわざわざ図書館に行きそのページを調べるなんて、持っている本だったとしても埃にまみれた本を引きずり出してきてページを探すなんて、よっぽど自分の研究と関係しない限り、しなかった。

海外参考文献はとりあえず並べることで、もっぱら筆者の権威を高める機能を果たす装置だった。

でも、今は違う。

読み手は、論文を読みながら、‘ちょっと’気になる海外参考文献があれば、どんな本、どんな論文でもネット上で即座に見ることが出来るし、その本、論文の中を自由自在に検索も出来る。

「こんな文献、誰も持ってないだろうし、見ないだろう」なんて通用しない。

だから、軽い気持ちで適当に訳す、適当にまとめる、適当に引用する・・・なんてことをすれば、即座に書き手としての能力を疑われるリスクが生じる。

今や、海外参考文献は、筆者の権威を失墜させる機能を格段に上昇させた、危険な装置である。

 

 

真面目に論文読むと、これが結構あるんです。今日も・・・(残念)。

海外参考文献、軽い気持ちで、適当な要約とかすると能力を疑われます。並べればいいってもんじゃありません。お互い、気をつけましょう。