蓮実重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』
スポーツ/運動を「見る」ということを顕揚しようとする蓮実の意図は分かる。例えば、日本が負けるまでは「感動」とかいう言葉を振りまきながら大騒ぎをしていたのに負けたとたんにワールドカップは終わったも同然の扱いをするTV、海外メディアを見て書くべきことを決めている、あるいは韓国という固有名を見ると思わず賞賛の記事しか書けなくなってしまう大新聞、イングランドとかの自分の応援チームが負けたからもう後の試合は見ないと言ってはばからない自称「サッカー・ファン」――こういう者たちがフットボールを見る際いったい何を見ているのか疑問に思わざるを得ない人間には、運動それ自体を見るべしという蓮実の主張の含意はすぐ分かるはず。
しかし、この本が提示しているものがその主張にかなったものになっているかといえばまったく首肯できない。蓮実の映画論が該博な映画(技術、歴史)に関する知識(あるいは‘「見た」の集体’)に裏付けられており、そのような知識に基づいてこそ蓮実的な「見る」ということが成立するものだということはその著作を読めば即座に分かることだが、スポーツに関して蓮実は体系的な知識(戦術、技術、歴史)をまったく欠いている。知識を欠いてスポーツを見れば当然印象批評になる。これはとりわけフットボールに関する議論で明らかだ。フットボールの「瞬間的な美しさ」とか言っても、なんのことはない、フットボールなど普段見ない我が家のYにも分かる一見して「オオッ!スゲェ!」プレー以上のものではない。実際、蓮実と渡辺直巳との対話は、フットボールに関する部分だけを見れば単にジジイ二人の放談以外の何物でもない。彼らが語るメディア批判、文化批判はまっとうだが、それは決してスポーツを「見る」ことではない。
「映画においてスクリーンが映し出すものすべてに必然性がある(べきだ)、そのすべてを捉えることが映画を‘見る’ということだ」ということを私は蓮実の映画論から学んだが、同じことはスポーツにも言える。多くの偶然にゲームを任せているとしか思えない日本フットボールに対して、イタリアのフットボールはピッチ上に起こるすべてに必然性を与えようとしている。奇跡のようなスーパープレイも微細な必然性の集積があればこそその偶然性を輝かすのであって、それは単に偶然性を追い求めることによってなしうるものではないということを忘れてはなるまい。必然性に支配された運動、そこにこそ初めて奇跡の美しさは宿るのであり、この運動の‘必然性/美しさ’の総体を捉えようと努力すること、これが運動を「見る」ということでなければならないはずだろう。にもかかわらず、蓮実はこのような努力をしようとはしていない。だから、本来は数多くある運動の美しさを蓮実は捉えることが出来ず、せいぜい誰でにでも分かるハデで目立つプレーしか目に入ってこないのだ。
フットボールを本当に「見る」と言うなら、映画を「見る」際に注いだ努力と同じだけの努力を注いでからにしろと言いたくなるが、蓮実がスポーツに関して語っていることは、功成り名をあげた人間の余芸なのだと考えるべきなのだろう。だから、蓮実の議論はビートたけしの政治談義に似ている。正論だがあくまで余芸、真の問題はその先を論じられるかどうかにある、という意味で。しかし、余芸ならそれと自己認識すべきだ。余芸でその専門家と闘おうとはしないという程度の謙虚さをビートたけしは持っているが、蓮実にその謙虚さはない。ことフットボールに関して言えば、この程度の‘動体視力’で専門家に喧嘩を売れば相手は怒るに決まっているだろう。
結論;この本は、運動を「見よ」と言いながらあくまで「見る」端緒を示すだけのものであって、いまだ「見る」ということがどういうことか皆目分からぬ者には有益だろうが、本当に「見る」ことを望む者にはまったくなんの役にも立たない。