日本代表

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「プライドを賭けて戦う」とかいう笑わせる台詞の結果があの様だ。オマーン、タイでのパォーマンスがアウェイの高温多湿のせいではないということがはっきりしたと思う。今の日本フル代表はどこでやってもあの程度のパフォーマンスである。バーレーンのコーチが、今の日本代表はジーコ時代より弱いと言ったらしいが、‘ジーコ時代より’という比較はともなく、バーレーンから見ても‘強くはない’ことは間違いないと思う。

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フランスは、EURO2008で相変わらず一時代前の人間であるジダンがチーム作りの基準となっていた。ドメネクは2006WC予選で一度ジダンを代表から外しながら、結果が出ないので結局代表復帰を要請し、ジダン基準でチームを作った人間だが、EURO2008でもこれを変えようとしなかった。

その結果が今回の屈辱的な一次リーグ敗退である。ドメネクは一次リーグ敗退後インタビューに答えて、若手を登用した新しいチームを作るべきだったと言っていたが、何をいまさらとしか言いようがない。そんなこと、ドイツWCの時から分かっている。http://d.hatena.ne.jp/Zephyrus/20060621/1150857207

フランスの問題はひとえに概念的なものだった。フットボールの概念が一時の大成功(1998WC優勝、EURO2000優勝)によって固定されてしまうと、容易にそこから抜け出せないのだろう。新しいフットボールの概念を打ち出し、そこへと至る方策を考案すること、しかも結果を出しながらこれを遂行すること、これは至難なのだろう。(フランス・メディアはリベリ、あるいは若手のナスリを‘ジダンの後継者L'Heritier de Zidane’とか呼んでいるが、こんな表現も概念固定現象の一つなのだろう。)

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トルシエという人間は色々問題のある人間だったが、日本においてフットボールの概念的革新を成し遂げたという点では最大限の評価を与えられねばならない人間だと思う。トルシエは、中田英寿他、若手主体でチームを作り、日本のフットボールの概念を一新した。日本のフットボールトルシエの時ほど、劇的に変化し、実力の向上を成し遂げた時はないだろう。

いわゆる黄金世代がその時存在していたからだ、という理由付けは間違いではないだろうがほとんど結果論だと思う。日本人監督だったら、年齢のバランスとかを考えて、トルシエほど劇的な変化を起こせなかっただろう。

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世界のフットボールの概念は変化を続けている。もはや8年前のフランスが具現化していたフットボールの概念は過去のものだ。運動の速度、精度、量といった概念は一新されてしまった。

しかし、今の日本のフットボールの概念はトルシエの時代から変化したのだろうか?そうは思えない。今の日本フル代表はトルシエの発掘したプレイヤーで出来上がっている。今の日本代表のコアメンバー――楢崎、中澤、遠藤、中村俊、高原――は、完全にトルシエ選出のシドニー五輪代表である(楢崎は(オーバーエージ)枠だけど)。今の日本代表はトルシエの遺産で食べている没落貴族みたいなものだということだ。

日本はフットボール界で貴族であったことは一度もないから、正確には、没落庶民、ワーキングプアといったところか。このワーキングプアは新興のバーレーンにさえ最早きっちり勝つことができない有様である。

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今の日本はフランスと似た状態にあるように思われる。岡田はドメネクと似ている。ドメネクが一時代前のジダンという基準から逃れられないように、一時代前の中村という基準から逃れられない点で。

今の日本は中村俊介と中村的なプレイヤーばかりが目立つ。というか、みんなが中村にあわせようとしているようにすら見える。岡田は、中村を基準に、中村の能力を生かすチームを作ろうとしているように見える。中村的な才能がフットボールの才能で、これこそまず最初に評価されるべき才能だ、といった具合に。

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オシムには目指すべき基準というものがあった。簡単に言えば「走るフットボール」。運動の速度、量、適切性の向上。オシムは、例えば中村俊介のスピードのなさ、運動量の不足、守備意識の不足を指摘して、中村の代表落ちの可能性さえ口にしてプレッシャーを与え、ひいてはチーム全体にプレッシャーを与えていた。そして、当時、中村はオシムの要求に応えられるようにしなければならないと繰り返し言っていた。

ところが、岡田が監督になってからの中村の発言は自信に満ちあふれている。その発言からは、自分が基準だというような含意すら感じられる。実際のゲームを見ても、中村が‘チームの中で’遅いとも運動量が不足しているとも見えない。オシム中村憲剛には球離れが遅い、無駄なテクニックを見せようとし過ぎると批判していたが、中村憲剛は相変わらずのプレーを続けている。だが、憲剛も今の‘チームの中で’とりわけ球離れが遅いとも見えないし、プレッシャーを感じているようにも見えない。遠藤も同じだ。

中村俊介中村憲剛や遠藤のプレーに問題があるように見えないのは、こういったプレイヤーの水準、オシムが何とか変えようとしていた水準でチームができあがってしまっているということだ。

しかし、こんなことは絶対間違っている。中村が居心地の悪いチーム、自分の能力不足を自覚するようなチーム作りを目指さないでどうする?

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セルティックで中村は非常に機能しているが、それは周囲のプレイヤーが非中村的な、とんでもない運動量と速度を誇るようなプレイヤーだらけだからだ。ストラカンは中村に対する信頼を繰り返し口にしているが、チームを中村基準で作ろうなどとはしてはいない。チームに中村は一人いれば十分なのであって、あるいは中村はチームの中で機能する一つの駒に過ぎない。

中村は才能があるが、中村的才能を基準に出来上がったチームは最早現在のフットボール界では二流のものでしかない。07-08チャンピオンズ・リーグ、決勝トーナメント開始直前、UEFA会長のプラティニは日本メディアのインタビューで、現役時代のプラティニと中村を比較する質問をされた際、(日本メディア用のサービス・トークをするだろうという期待を見事に裏切って)憤慨したように「私は彼ほど足が遅くなかった」と即座に言い切っていたが、これがフットボール界での中村に対する基本的評価なのだと思う。

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EURO2008を見れば解るように、現在のフットボールはますます走る能力を要求するようになっている。速度の中で発揮できない技術など今やまったく評価されないと言ってもいいだろう。フランスが負けたのはチームが最新の走力の概念に根ざすものではなかったからだ。

日本はフランスと似ている。日本の走力の概念も恐ろしく古びている。もちろん、この比喩は不正確だ。走れないと言ってもフランスと日本では水準が違う。フランスは腐ってもまだ鯛だが、日本は腐ったらただの腐り魚である。日本はもはや単純な走る速度においては間違いなくバーレーンオマーンにも負けている。日本は今やアジアの腐り魚になりつつある。

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「中村が王様になるのも、日本人プレイヤーの水準からすればしょうがない」などということはない。(U-20WCカナダ大会での)U-20代表や、(先日の対カメルーン戦の)U-23代表は走力を生かした非常にいいゲームをしていた。別に今の若い世代に才能がないわけではないと思う。

問題は繰り返すが概念的な構想力に関わるものだと思う。問題は、日本のフットボールのイメージが中村的なものに固定してしまっていて、中村的な細かな技術を基盤に、より速度と運動量を加えたチーム・ビジョンに到達するための道筋を描くことが出来ないということだと思う。あるべきチームのためにはどういう人間を選抜しどういう訓練をして、どう育てていくのか、これを具体的にイメージできないということだと思う。

岡田にだって、より高い水準のチームのビジョンがないわけではなかろう。ないのはノウハウなのだと思う。現状の水準を目指すべき水準に持ってゆくには何を改めればいいのか、どういう手順を踏んでいくのか、そのノウハウがないのだ。あるいは、少なくとも、ないとしか見えない。

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北京五輪U-23代表がどこまでできるかが重要なのだろう。U-23がそれなりに成功すれば、U-23代表のフル代表への大幅登用が実現する可能性がある。

しかし、U-23が北京でこけると、フル代表はこのままの状態で最後までという可能性が非常に高い。そのときは、最終予選で負けてWCがなくなって、やっと日本は概念的変革の必要性を知るのだろう。フランスがEURO2008で惨敗してやっとチームを一新する必要性に気づいたように。