あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください2

ここ数年、EMそれ自体を実践として考えているのだがいくつかのことに気づいた。

1;80年代の状況

個人的な経験を言うと、80年代、私はEMに何の興味もなかった。EMの話題は周囲にいた複数の先輩がしていたので、ゼミ、研究会の報告、論文を通じて知ってはいた。が、それらは、私にはシュッツ的なものにしか見えなかった。私は、卒論でシュッツを批判して以来、修論でもシュッツ批判を全面的に展開した経験があり、まったくシュッツ的社会学をやる気はなかったので、EMも何が面白いんだかと思っていた。今でも、卒論、修論での私の意見は、書き方は無論稚拙だったが、間違っていないと思うし、80年代当時の日本のEM研究がシュッツベースだったという私の判断も間違っていないと思う。

そんなころ、あるとき、ゼミの先輩から「今こういうの研究会で読んでるんだけど来ない?」と渡されたのが、ガーフィンケルとサックスのあの有名なストラクチャー論文のコピーだった。リンチやシャロックがEMの最重要論文、最難関論文としている論文は、当時の私には歯が立たなかった(今でもはたして読めているのか分からない)が、少なくとも、シュッツとは決定的に違う何かがある感覚はあった。で、ガーフィンケルの『EM研究』第一論文を読んでみた。が、これはリンチが散文と呼んでる代物で、さらに本当に分からなかった。でも、当時分かっている人間は、日本には誰もいなかっただろう。だが、周囲の人間が言っているEMとはまったく違うEMがあるという感じはした。

修論は、今で言う解釈主義批判をしたのだが、指導教官の評価は「よく書けているけど、今後何をしたいんだ?」。シュッツ風の解釈パラダイムは根本的に間違っていると思っており、「今後」と言われても、当時の日本の社会学にはその「後」は何もないというのが個人的な判断だった。「じゃ、何で、社会学の院に行ったんだよ?」と言われそうだが、その「後」が学べると思ったのが社会学の院だったとしか言いようがない。

ところが、このころ、社会学は妙に流行期に入っていた。妙ちくりんな理論系社会学が大流行した。今では信じがたいが、私がドクターに入って最初に学会発表した理論系部会は、200人は入る教室がぎっちりいっぱいで立ち見は当然、人が教室に入りきれないという有り様だった。でも、私には、当時の社会学の流行は、これはこれで、アクロバットか手品としか見えなかった。デリダフーコーの後に、どうしてこんなベタな社会学が来るんだよと思っていた。当時のある手品師の修論は原稿用紙換算1200枚、概要400枚だとか噂になっていたが、それを聞いた知り合いの教授が「じゃ、概要を(修論として)出せよ」と笑ったのをよく憶えている。手品師の真似をする気もなかった。

要するに、私は早すぎたってことでしょうね。つらい時代でした(笑)。今のEM研究者なんて幸福です。解釈主義批判、表象主義批判とか、100字くらいにまとめて軽いノリで語ることができるんですから。この手の言葉は定番化していて、周囲が好意的に理解してくれますし。これが80年代なら、訳の分からない形で勝手に「理解され」、ほんの一部で評価され、圧倒的大多数に袋にされます。思いもよらぬ形で「理解されてしまう」こと以上の災厄はないなと思いましたよ。このころ、デリダフーコーを絡めて(後で社会学評論に掲載される論文の原型の)報告をしたら、こちらの言うことを聞こうともしないある手品師に、1時間まるまるシステム論風の(報告者になりかわっての報告の)解説(!)と説教をされた経験なんてそうあるもんじゃないでしょう? 

そんな80年代の暗さが残る90年代初頭、リンチが出版した『科学実践と日常行為』は夜明けの光を与えてくれた。自分が考えていたことのすべてがそこにはあり、そのすべてが基本的には正しいと分かった気がした。無論、分からないことはたくさんあり、そのアウトプットまでは長い時間がかかるのだが。






(続)