内井惣七『科学哲学入門』


19世紀に始まる統計革命の意義をある程度押さえておくために(もちろん、これはゴルトン優生学がこの中から誕生したからだが)、未整理のままの知識を整理しなければ、と思い読んでみた。

「4章10節 説明の歴史的変化」でトゥールミンの議論が紹介されている。言うまでもなく、トゥールミンはウィトゲンシュタインの弟子で、『ウィトゲンシュタインのウィーン』の筆者(の一人)で、日常的推論の構造を解明しようとした人で、構築主義社会学にも影響を与えた人で…etc。内井はこのトゥールミンの議論をおおむね次のようにまとめる…。

何が科学的説明と見なされるか?は方法や科学観と同様変化する。科学的説明においては説明項の中の法則のように本質的な役割を担うものが前提されており、この標準=「自然的秩序の理想」自体は説明の対象とはならない。だが、この標準は歴史的に変化する。例えば、古代天文学コペルニクスの円運動、ニュートン力学では等速直線運動がそれぞれ標準だった。

そして、この議論に対して内井は次のようにコメントする。

この見解は、「説明の歴史的変化」に関する限り、なかなか説得的に見える。しかし、被説明項が「自然的秩序の理想」にどのような条件で関連づけられると説明になるのか、という点の細かい分析はほとんど欠如している。それがこの見解の大きな欠点である。本節では、この見解を批判するのが目的ではなく…

トゥールミンの議論を直接読んでいないので断言はできないが、おそらく、内井の不満は無い物ねだりだろう。内井が求める「条件」は書き出すことはできないだろう。私としては、そのような「条件」は局域的な場の中にある、局域的な実践によって「自然的秩序の理想」と個別事例とは結合されると主張したいところだ。

こう考えれば、トゥールミンの問題設定とハッキング的深層構造/フーコー的Savoirの問題と繋がるだろう…と瞬間思ったが、よく考えてみると、こういった形での問題設定は恐ろしくありふれている。形式的(普遍的な)規則の個別場面での運用、抽象的な理念の具体的場面における具現化――社会学はこういった問題を最初期から考えてきたはずだ。

してみると、ハッキング的深層構造/フーコー的Savoirに関して今私が考えていることは、問題の定式化を誤るとまったく古典社会学的な問題の定式化となってしまう、さらにはハッキング、フーコーの名前を出しながら、そして認識論の外部などと言いながら、気づかぬうちに古典社会学的な問題を考えているということになりかねない、ということになる。

新しい問題を考えているつもりでいつの間にか昔ながらの問題を考えている――非常にありがちなパターンだ。内井の本を読んでいて、こんなことを思わず考えてしまった。