『偶然を飼いならす』

二巡目である。部分的にスキャナ+OCRでテキスト化しつつ読んでいる。

以下、ハッキングの記述法に関するメモ。

0「本書は哲学的分析の一つである。哲学的分析とは、概念の探求のことである。諸概念は、それ固有の位置を有する言葉である。固有の位置とは、たとえば文sentencesや制度institutionsの中でのことである。残念ながら、本書で私は制度についてはほとんど触れられなかったが、文について、そして文がどのように編成されるかについては多くを語り過ぎることになってしまった。」012

1概念、推論の歴史を書くためには、抽象的な解明は役に立たない。真偽を指定するものの解明は真偽の水準ではなされない。よって、その解明は具体的な話を積み上げてなされるしかない(「抽象の海の中に深く潜水するよりは、実例の中を歩いて渡るというやり方の方が、推論のスタイルの考察としては賢い」011)。

2歴史の流れをいくつかのエピソードに分解し、記述する(「概念と推論のスタイルの転換は、特定の個人の介在よりもむしろ、無数の細流が作り出すものである」012)。各エピソードはそれぞれコンテクストを形成しており、緩やかに相互参照しつつ結びついている(この結合のロジックに関してはそれがどのようなものかは分からないが、非常によく考えられていることは分かる)。エピソードは主要に、ある事件に関わることも、ある学問的主題に関わることも、ある人物に関わることあるが、結局当然それらいずれにも関わっている。この記述法は『魂を書き換える』でも踏襲されている。

3個々のエピソードを切り出すのは恐らく歴史それ自体だ。エピソード/コンテクストは歴史の中を生きる人々のものでもある。ハッキングは、どの、誰の、視点から、記述しているのかを前面化するような書き方では書いていないが、間違いなく、この点を押さえているだろうことは読んでいて分かる。

*このような歴史をエピソードに分解して記述するという点、GRは結果的にこの記述方策に近づいていたように思う。GRでは、産児調節運動を記述する際、各章、①自己の確立と家族の再編、②優生学という背景的知識、③科学の使用、という形に、これを分解して記述している。書いていた当時は、「産児調節運動は3つの構造的軸を持っている」というように考えていたが、これは産児調節運動を記述するエピソードを三つ並べる結果となった。ハッキングがしていることは無論はるかに複雑なことだが、GRは図らずもこの記述法に近いことをしていたように思う。

4重要なのは、ハッキングが各エピソードが再び複数のエピソードから構成されていることを知っているということ。恐らく、ハッキングは各エピソードを複数のエピソードの集体として記述できると思う。どのようなことをエピソードの単位として設定するか、これは解明しようとするテーマにかかっている。テーマがエピソードの何たるかを指定する。

5ただ、本書は「偶然」「確率」ということを学問的な水準で追求している。そのため、各エピソードは一見、風変わりな学説史という形で展開されているようにも読める。恐らく、「偶然」「確率」の飼いならしという同じテーマをもっと非学問的な、一般生活者の水準においても展開することができたと思う。これもまたテーマの設定如何なのだとは思うが、このような設定のため、本書はフーコーの『言葉ともの』に似た読後感を与える。

6しかし、だからといって、ハッキングは単に思考の問題、あるいは学説史的問題として問題を把握してはいない。「統計学の例は、推論スタイルの成長が、思考だけでなく行為に関わる事柄であることを明らかにしてくれる」010。いろいろな実践の中で統計概念が前提され自明視され、またこれによって実践はそれら諸概念の具現化となる。

例えばいろいろな社会改良運動がなされる。ハッキングはそういうエピソードも紹介しているが、それは決してその当否を論ずるためではない。そういう社会運動がある概念を前提し、また具現化しているからである。

現在では意思決定理論、オペレーションリサーチ、リスク分析、さらにその領域を特定することすらできないほど広知られている統計的推論などでは、情報informationや統制controlという用語が価値中立的に語られる。だが、数字化し分類することで、逸脱した一部の集団を改良(統制)できるという発想がこの一見価値中立的な発想の起源にあったことに注意するべきである。006

統計法則は、経済的自由主義的libertarian、個人主義的、原子論的な人間および国家概念が優勢な西ヨーロッパの社会データの中で発見されたのである。集団主義collectivistと全体論的傾向が優勢な東ヨーロッパでは統計法則が社会データの中に見出されることはなかった。つまり私が描こうとする諸転換は、個人とは何か、社会とは何かという、より広い文脈の上ではじめて理解されるものなのである。006

7このような諸点において『偶然を過ならす』の記述法は『魂を書き換える』のそれと共通するが、両者の差異もやはり存在している。

まず、上記5に関連して、『記憶を書き換える』においては、記憶というテーマが単に学的世界におけるエピソードにおいてのみ探求されるのではなく、多様な日常生活者の活動の中のエピソードにおいても探求されている。このような対象フィールドの設定の差異は単にテーマの設定の問題と片づけられるのだろうか?考える必要がある。

そして、何より違うのは、対象フィールド(に存在する論理)に対する態度である。あるいは、対象フィールドとの距離の取り方と言ってもよい。『偶然を飼いならす』においてはハッキングは(歴史的)フィールドに論理的不明瞭性/非一貫性があることを認めた上で、これをいわばそのまま提示する。

考え自体に一貫性があるように見えないのは、我々がその考えを理解できていないからだというのは歴史を書く際の原則である。しかしこの章の内容は、この原則の一つの反証となっている。因果性についてのこれらの考えは現在と同様、当時もさほど明確な意味を持っていなかったのである。166

『偶然を飼いならす』においてはこの判断で考察が停止するのだが、『魂を書き換える』はさらに先に進む。『魂を書き換える』においては、ハッキングはフィールドにおける「明確な意味」の欠如それ自体を何とか「理解」しようとし、さらには正しい考え方までも提案しようとする。『偶然を飼いならす』と『魂を書き換える』では、考察対象であるフィールドとの距離の取り方がまったく異なっている。『魂を書き換える』において、ハッキングは積極的に「介入」しているのだ。シャロックらの批判はこのような「介入」に対する違和感の表現とも取れるが、この「介入」はどのように正当化されるのだろう?謎である。