『偶然を飼いならす』

ベル型カーブを利用したケトレによる統計法則の実体化に対する大きな影響の一つは、それが統計的運命論を生み出したことである。この統計的運命論に対して、ファーのような個人の自由を擁護する者たちは、次のようなロジックを考案する。

人々は統計法則に従うように運命づけられてはいない。なぜなら法則が適用される諸条件を変えることができるからである。ある街では火事の件数の法則が存在する。しかし防火管理,建築基準法規,市街計画によって,リスクを減らすことは可能である。同じことが階級に対してもなし得る。我々行政官は,街並みを変えることで,火事の危険を減らすのである。つまり我々のような支配階級は,彼らすなわち被支配階級に適用されている法則を変えることができるのである。173

これは決して反社会的決定論ではない。むしろ強烈な社会的決定論である。ただ、支配階級は統計法則に縛られる被支配階級(労働者階級)の初期条件を改変できる、そしてそれよって彼らを矯正できるというだけである。「ケトレもファーも,19世紀統計学の博愛主義と功利主義の両面を代表している」173が、このような19世紀的な博愛主義と功利主義、さらに言えば階級意識、支配者意識こそ「リベラリズム」の起源である。

改革の大きなうねりに共感する読者はファーの寛大な精神をただただ賞賛したいだろうが,彼のような小役人が,我々の社会が機能するために必要な権力の一つの土台をどんなふうにして作り出してきたのかを無視してはならない。我々は,反抗的な態度の被支配階級のデータを得て,次にその階級が従っている統計法則を変化させるために,その階級こ関連すると考えられる条件を変えようと試みる。これこそがアメリカ合州国で「リベラル」と呼ばれている統治方法の本質である。174

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20世紀前半の優生学関係者など、まさに博愛主義のモデルのような人間ばかりだ。しかも彼らは、博愛主義的改良主義についてそれが学者の常識だと大して考えることもない、あるいはそれが学者として生きるための条件だと功利主義的に受け入れている現代の学者と違い、心から貧困階級のために尽くそうとしている。彼らは職を失う、場合によっては命を失う危険の中で、貧困階級のために働いた。職をかけて、命をかけて、自らの信念を貫徹するなど夢にも思わない現代の学者たちが、単に優生学的主張を行ったというだけで過去の思想家に対して非難の大合唱を展開するとはまったく皮肉としか言えないが、彼ら現代の学者たちは自らのスタイルが自らの非難する‘優生思想家’をきわめて凡庸な形で反復しているに過ぎないということを少しでも反省したことがあるのだろうか?恐らくこの種の反省の欠如こそ、歴史が喜劇として反復していく条件の一つなのだろう。

とりあえず、博愛主義的、社会改良主義的な研究者に対しては次のようなコメントがふさわしい。「改革の大きなうねりを支持する者たちは研究者の寛大な精神をただただ賞賛したいだろうが,彼らのような小・学者が,我々の社会が機能するために必要な権力の一つの土台をどんなふうにして作り出してきたのかを無視してはならない」と。