6月12日 日本vsオーストラリア

1−3。

言葉がない。日本は長所をまったく出せず、「ドン引き守備+決められないフォワード」のおよそワールドカップ水準にないチームにされてしまった。しかも、プレミアリーグ下位チームのような力任せのフットボールをするオーストラリアによって。

①日本は長所の中盤を完全に封じられ、最悪のドン引き守備隊形をとらされてしまった。日本は裏への飛び出しが怖くて最終ラインを上げられない。怖くてもラインを上げて中盤をコンパクトにしないことにはプレスがかからないのに。上げないで徹底的に守りきると言うなら、(かつてのイタリア・カテナチオばりに)前線の二人を残して最終ライン前に複数の人間を常駐させ、かつ(攻撃的な)小野を投入するのではなく(あたりに強い、イングランド仕込みの)稲本を投入して守備的ボランチの数を増やすべきだろう。しかし、日本はどちらで行くのか分からないまま、中盤を完全に支配され、(対ドイツ戦の)コスタリカと同じく、最終ラインを突破されてしまった。あの守備であれだけのパワープレイを受け続けていたら、失点するのは時間の問題だって誰の目にも分かるのに、なんで修正しないんだ?ホント情けない。

(最初の失点は目測を誤り「キーパーは飛び出した限りは絶対ボールに触れねばならない」というキーパーの大原則ができなかった川口のミスだが、このゲームでは川口に3、4点は救ってもらっているのだから川口を強く責められないだろう。)

②攻撃では決められない伝統の日本が最悪の形で出た。力一杯やって失敗しているならまだ許せるが、柳沢や(やっと後半攻撃参加しだした)駒野のどこかおずおずとしたプレイはいったい何なんだろう?情けない。(駒野の精度の低いへろへろしたセンタリングを見るたび、加地がいればと思ったがこれはどうしようもない。)

③恐らく大方批判はジーコの采配に集まるだろう。ヒディングと比較して。しかし、ジーコにとって本人が常々言っているように選手が第一、選手がすべてなのだ。監督は選手がすることをサポートする役割でしかない。だから、(これまでの多くの采配からも分かることだが)ジーコにおいては、選手交代も、監督が方向性を決めるようなものではなく、ピッチの中にいる選手がしようとしていることを後押しするものでしかないように思う。確かに、一見、小野を投入をするのは謎でしかない。しかし、ジーコは、いくら最終ラインと前線が分断され中盤が手薄になっていたとしても、あのときゲームの中にいるプレイヤー(特に中田!)がまだ攻撃を望んでいることを見て取り、それをバックアップしようとしたのではないか。中田と中村でトップ下、かつ小野と福西をボランチ位置に入れて、ボックス型の中盤を作り、中盤を厚くすると同時に攻撃も可能にする――そんな意図があったのではないか。実際、後半であっても中田は中村より前にいることが多く、中村の方が最終ライン前で守備をしていることがたびたびあった。前線と最終ラインの分断を‘選手自身が’はっきりと修正しようとしていればジーコはそれに応える選手交代をしたのではないか。ジーコの意図の見えない手は、選手がどうすべきか迷っていたことの反映ではないか。このような采配は確かにある意味では監督役割の放棄に等しいが、しかしこのやり方はジーコが言い続け、し続けてきたことだし、これで日本が成長したことも間違いがなく、このジーコのやり方に日本はかけたのだろう。今さら誰がジーコを批判できるというのか?こういう考え方を受け入れられないというのなら、もっと昔にジーコの解任動議を出すべきだったのだ。ジーコが監督である限り、この敗戦の責任はまずは、ピッチ内で今何が必要か、自分は何をすべきかを判断できなかった選手にある。4年間かけても日本の選手にはこういう判断ができるようにならなかったということ、これが残酷だけど現実なのだと思う。これが4年の時間をかけて得たその結果か…。

しかし、規律がすべてのトルシエのあとに自由奔放なジーコ…。よくもまあ、これだけ正反対の人間が連続して監督になったものだ。このような監督のつながり一つ取ってみても、日本のフットボールが二流でしかないことがよくわかる。日本のフットボールには哲学がない。次期監督にはヴェンゲルの名前が挙がっているが、その戦術、思想で彼の名前が挙がっているわけではない。所詮有名人だから、ブランド(カリスマ)だからだろう(トルシエは最初ヴェンゲルに監督を依頼し、ヴェンゲルがこれを断ったときに彼が紹介した人間)。ベンツやエルメスと変わらない。監督がブランドで選ばれなくなるのはいつなのだろう。恐らく10年単位の長い時間がかかるのだろう。