ハッキング検討会

pm1から神楽坂で研究会。ハッキングの以下の3論文の検討(報告者3人)。

#1 Hacking, I. 1986 "Making up people," in Heller, T. (ed.) Reconstructing Individualism,Stanford U. P., pp. 222-236.=隠岐さや(訳)「人びとを作り上げる」『現代思想』28-1,114-129.
#2 Hacking, I. 1996 "The Looping Effects of Human Kinds," in Sperber, D.et. al (eds.) Causal Cognition: A Multidisciplinary Debate, Oxford U. P., pp. 351-383.
#3 Hacking, I. 1999, "Kind-making: The case of child abuse," in The Social Construction of What?, Harvard U. P., pp. 124-162.

今年に入って何回かハッキングの検討をしているが、今回は分かりやすかった。とりわけ#2、#3は、‘Rewriting The Soul’1995の直後に書かれたせいだろうが、自らの仕事を上手く総括している。ハッキングが語るの概念ペアもやっと腑に落ちた(気がした)が、この概念ペアは現在気になっている、生物学史、医学史の錯綜を記述する有力なツールになると思われる。<ハッキングvsシャロック>論争を検討する前に、こちらの検討をしておくべきだったかもしれない。


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今回の研究会でどうにかハッキングのしていることがどういうことか見えてきた気がするが、それでもまだ肝心なところが分からない。

ハッキングが、多様なカテゴリーの出現と変容、及びこれに伴う論理空間(記述可能性)の出現と変容の有様を、多様な場(コンテクスト)に即して、捉えようとしているのは分かる、として問題は;この作業において、どのようにコンテクストを特定すればいいのか?

『偶然を飼いならす』などを見れば、ハッキングが何枚も何枚も詳細な年表を書き、1その中でのこの概念とあの概念が連係している、参照しあっているということ、そして2そこに固有名を持った人々がある特定の実践において関与していること、そして3そのような諸概念の連係、参照関係と、固有名を持った人々の実践との絡み合いをコンテクストとしてまさにそれら諸概念、諸実践が理解できるということ、そして4そのような編成をトピックをとしてまとめられること――こういったことを発見していったのだろうということが、‘それとはっきり書かれていなくても’、分かる。ハッキングは、‘その記述の強度において’、そのようなトピック毎に組織された概念−実践−コンテクストの複合体(『偶然を〜』の章立てはまさにこの複合体に対応している)の適切性を読み手に与えることに成功している。

しかし、これはとんでもない作業だ。凡庸な人間がこの作業をすれば絶対、トピックの恣意的選択、あるいはコンテクストの恣意的外挿との印象を与えることになる。あるいは、あるカテゴリーが開示する固有の論理空間の変形をいかなる立場から記述しうるというのだという疑問を必ず誘発することになる。つまり、凡庸な概念史、あるいは歴史社会学的記述の試みとの印象をどうしても与えることになる。あるいは、もっとひどければ、単にそのような‘印象を与える’だけでなく、ハッキングに言及しつつも、トピックの恣意的選択、あるいはコンテクストの恣意的外挿を‘事実’行う羽目になってしまうだろう。これをどう防げばいいのか?概念の歴史を扱う手法としては、昔からインターナルな手法、エクスターナルな手法の存在が知られているが、昔からあるインターナルな(あるいはエクスターナルな)概念史の手法――例えば、廣野、市野川、林編著『生命科学近現代史』に収録された諸論考が示す手法――からどう自らの研究を差異化すればいいのか?ハッキングはもちろんこんな都合のいい質問に答えてはくれない。私は『生命科学近現代史』に収録された諸論考の優秀さを否定するつもりはまったくないが、ハッキングに言及する以上これら諸論考との差異を意識的に記述上に表示できなければならないとは思う。

エスノメソドロジーEMは相互行為場面の研究においてだが同じ問題に拘ってきたのだと思う。換言すれば、EMは、自らがコンテクストに内在し成員の指向性に準拠していることの証拠をきちんと記述上に表示すること、これに拘ってきたと言ってもいいと思う。EMはこのような拘りがあればこそEMたり得たはずだ。同じようなことがフィールドを変えて概念の出現と変容を記述する際にどうすればできるだろうか?この点をちゃんと考えておかないと、いくらポリシーは高邁であっても、記述がそのポリシーを裏切ることになってしまうだろう(記述がポリシーを裏切る事例を数多く見て批判もしている社会学者が、自らの記述において同じ過ちをくり返すことがなんと多いことか!)。他の人間に彼らが何をしているのかを教示するというなら、まず自分が何をしているのかを明確にしなければならない。というか、自分が何をしているか明確に出来ないなら、他の人間に対して彼らが何をしているかなど教示できるはずがなかろう。

確かに、記述がいかなる形態を取るか、これは対象となるフィールドが決めることであって、事前に決定できることではない。会話分析の失敗はそれが記述のフォーマットを結果的に提供してしまった点に尽きている。トランスクリプトを提示し、過去の業績に出てくるやれ隣接対だやれ順番移行適切区域だといった言葉を並べれば、とりあえず会話分析に‘見えてしまう’ということ、そして大方の思考力のない、ただ論文の本数のことしか頭にない人間にそれを利用させたこと、これが会話分析の最大の失敗ではないか?事前に記述の組織論など考えることは間違っている。だが、少なくともEMを経験しEMに可能性を感じる者であれば、なにがしかの著作を読む際、何よりも注意を払い読む取る努力をするべきは、その著作の記述の組織論でなければならないということは疑いえない。例えば‘ハッキングを読む’とはハッキングがその記述をどう組織化しているのかを読むということでなければならない。そして、私はまだハッキングであれEMであれ、その記述の組織論を把握したなどと言うことはおよそ出来ない。ハッキングであれEMであれ、まだまだポリシーも学ばねばならないが、それ以上に記述の具体的な組織戦略、これを学ばねばならない。