市野川容孝『身体/生命』岩波書店(2000年)

非常に良くできている。フーコーという固有名、医学史、身体論、近代史――いずれに関心があっても、学部生には入門書として、またある程度知識を持つ者にとっては頭の整理のために、貴重だと思われる。とんでもない量の勉強をしながら衒学的スタイルに走らず、抑制を利かせた文章も素晴らしい。あとがきに今までの論文をリライトしたものと書いてあり、あくまで入門用という印象もあったので読まないでいたのだが、もっと早く読むべきだった。市野川の仕事、さらに色々な研究者の(ポスト・フーコー的と形容できる)仕事を再考するきっかけを与えてもらった。

フーコーを読む人間はいても、そこから進んでビシャやピネルのテクストを読む者はいないという指摘(あとがき)など、「まさにごもっとも、穴があったら入りたいです」という感じで、その勉強量に感服するばかりなのだが、あえて不満を感じる点を言えば、市野川のフーコーの発展のさせ方だろうか。市野川の仕事は、フーコー(とりわけ『性の歴史Ⅰ 知への意志』)を下敷きにして彼が語った重要なテクストを自ら読み、フーコーの論点を明確化、補完、修正するものとして総括できるだろう。もちろん、この発展のさせ方はそれはそれで重要なものであることは間違いない。しかし、どうも、その過程でフーコーが拘っていたいくつかの問題が抜け落ちてしまっているような気がする。

1ハッキングは「フーコーは‘Fact-Lover’だ、私はそういうフーコーを読むのが大好きだ」と言っている(そして、ハッキングの著作もまさにハッキングが‘Fact-Lover’であることを示している)が、まさにフーコーは歴史上の微細な事実が事実として積み上げられてゆくその様を記述することに非常に拘っていた。特に後期フーコーは自らの生-権力という概念を様々な具体的な言説-実践的事実を集積してゆくことで鍛え上げたはずだ。だが、市野川にはこのような事実を集積してゆくという態度はまったくない。市野川のテクストからは市野川が‘Fact-Lover’であるという印象はまったく受けない。市野川のテクストの記述は基本的にいくつかの著作の内容分析で占められ、微細な事実を積み上げてゆくことに向けられてはいない(まさにBookish!)。そのため、市野川のテクストはいくつかの著作をフーコーの下書きに沿って上手に配列したものという印象をどうしても与えてしまう。

2「これは仕方がない、フーコーを‘下敷きにして’重要なテクストを読むというのが自分の目指すところなのだ」と言われればそれまでなのだが、しかし、このような記述法はそもそもフーコーをその可能生の中心において裏切っているような気がしてしょうがない。フーコーは言葉を使用という観点から見ることに拘っていた。いつ、どこで、誰によって、誰に対して、何のために語られたのかという点から言葉を見ること、単純化すれば言葉をそれが語られるコンテクストの中で使用されるものとして見ること――これにフーコーは拘っていた。フーコー構造主義的言語観を批判するのは構造主義にこのような観点がないからだ。言葉は固有のコンテクストに置かれて初めて固有の事実性(実定性)を獲得する。言説とは正確には言説-実践pratique dicursiveであり、それゆえ言説という概念には言葉をその使用、実践として問題化するというフーコーの決意が込められている。しかし、市野川には言葉に対するこのような態度はまったくない。市野川が多様な言葉(テクスト)を検証するとき、市野川はそのコンテクストをまったく問題化しない。市野川が拘っているのはあくまでそのテクストの内容であり、その内容がフーコーの描いた下書きに収まるかどうかである。このような言葉に対する態度はフーコーのそれとまったく異なっている。

3このような態度と、市野川が語る生-権力が平板なものあるいは旧弊なものになってしまっていることとは無縁ではないように思う。言うまでもなく、フーコーは生-権力において従来の権力観の転換を図った。それは単に権力が抑圧的なものではなく産出的なものとなったというようなことではない。産出せよ(ex人口の増大を計るべし)と命じるものとして権力を表象するなら、いくら産出が主題化されていようがそれは抑圧権力でしかない。フーコーが語る権力はフーコーの言語観と切り離せない。フーコーは権力とは戦略の地図であり、唯名論的なものだと言っているが、これは簡単に言ってしまえば言葉が固有のコンテクストにおいて語られるときの多様な資源の配備状況のことだと思う。我々は言葉を語るとき様々な資源に依拠している。そのような資源は言葉の外に実在しているのではなく、言葉が使用されるとき言葉の中で、言葉によって、言葉に関連づけられて、存在する。そのような諸資源が張る論理-規範的な空間の有り様、これが権力なのだ。権力は言葉によって実定性を与えられ、言葉は権力によって実定性を与えられる。このようないわば微分化された権力こそ生-権力であって、この権力の動態を記述すること、これが少なくとも後期フーコーの課題だったはずだ。しかし、市野川にはこのような権力の理解は存在しない。市野川が語る生-権力に対する「抵抗」p118は「解放」の類義語としか読めない。市野川において生-権力はいわば産出を命じる抑圧権力となってしまっている。市野川の言葉が新優生学/個人主義優生学を前にすると途端に力がなくなるのはこのことと無関係ではなかろう。

4市野川は歴史を記述するということがいかなる作業なのかという問題をもう少し突き詰めて考えた方がいいように思う。この問題に関しては赤川学の方がはるかに気を遣っていると私には思われる(この点で赤川が市野川をどう評するのか本音を聞いてみたいところだ)。市野川は「抵抗」を急ぎすぎている気がする。