優生学研究の方向

優生学の目的は確かに国民の改良という国家主義的かつ進化論的なものであった。だが、そもそも優生学を支えていたのは、一人一人の民衆だった。これは、戦前の国家主義が単に上からの抑圧によっていたわけではなく下からの支持にもよっていた(民主的な国家主義!)のと同じ構造だ。

こんなことは私には単純な事実としか思えないのだが、どうも一般的な優生学研究というものは、この事実を適切に評価しているとは思えない。何しろ、読んでも読んでも世の優生学研究ときたら、優生学の理念(とそれを語る言葉)の過激さに目を奪われるのか、「昔は、こんな有名な人間がこんな過激な優生学的発言をしてたんだぜ。チャーチルが超優生学的発言してたなんて知ってた?しかも、この手の発言ってつい最近まで続いるんだぜ。驚きだろ?」とでも言うような優生学がらみの発言を並べ立ててみたりする話か、さもなければ、「こんな過激な発言が出てくるにはちゃんと系譜学的な理由があるわけ。優生学の理念は、国民という全体が(国家の学たる)統計学の発達によって可視化され、かつ、ビシャ以降顕在化した個人の死の不安とパラレルに、全体(=種/民族)の死(=退化/変質degeneration)というものが不安として表象されてこそ、成立するわけでさ、つまり、優生学って近代的な知と結合してるんだよ。知らなかったでしょ?」なんて話ばかり。

確かにこの手の優生学研究は大切な作業だとは思う。優生学の理念が誰によってどのように表現されてきたか、どのようなエピステモロジックな基盤を持つかを明らかにするのは間違いなく大切だ。そして、このような方向で優秀な研究もたくさんある。しかし、そのような系譜を持つ理念が、いかに人々によって積極的に支持されるに至ったのかという問題の考察を欠いては、所詮、優生学画餅ではないか?なぜ、誰も、人々が積極的に優生学を支持するメカニズム、あるいはそのような支持を調達するメカニズムの考察に向かわないのだろう?端的に言えば、実践活動としての優生学の記述をなぜ行わないのだろう?なぞだ。