社会調査士資格の社会的意味

先日某大学社会学部講義初日。講義要項を見て驚いた。理論科目、講読科目が大幅に削減され、その分調査科目が大幅増である。そして、これがそろいもそろって一番単純な質問票作ってばらまいて回収して処理して…という一番単純な調査ばっかり。社会調査士資格などというものが出来た結果がこれである。今や、通年で(と言っても、半期+半期だが)同一教員が一貫した講義をする理論系授業は2つしかない。「社会学部」ではなく「社会調査学部」「アンケート学部」とかに改名したらどうだろうか?

私の出た大学は社会調査必修だったので、私も(質問票を作り、地域コミュニティーに出かけて、町内会長にインタビューするなんてことをやったものだ。そのときに思ったのは、これで現実の社会を知ることが出来るのか?、「・・・についてはどう思いますか?」などという質問をでっち上げて、それをオヤジさんに答えてもらうと分かることが現実なのか?オヤジはリアルか?まあ、それも一つのリアリティなのかもしれない。しかし、あまりにも単純すぎないか?別のやり方で迫れるリアリティだってあるだろうに、学生をなめてないか?…

当時の思いは今もまったく変わっていない。こんな調査ばっかりやってたら、資格は取れるかもしれないが、頭は間違いなく悪くなる。そして、リアリティというものは頭の悪い人間には見えないように出来ている。社会というものは記述の集積であって、それゆえ社会のリアリティは記述のリテラシーを介してしか明らかにならないのだ。

無論、このリテラシーは闇雲に理論的な本を読むことで得られるわけではないが、かといって単純調査をすれば得られるわけでもない。少なくともはっきりしてるのは、今の社会学教育は(なんて言うと大げさだがあえて言えば)、学生のリテラシーを鍛えるということがどういうことなのかをしっかりと見据えた上で、なされてはいないということだ。あるいは、大学の中は、相も変わらず社会の現実と記述とを二分法的に捉え、記述を介さないナマの現実を調査して知ることは大切だとか素朴に信じている、あるいは、「生きるためにはそう信じているフリをするしかないだろ、長いものには巻かれろだよ」と思っている、あるいは「学部の学生はまず単純な所から入るしかないだろう」とその能力をバカにしている人間ばかりだということだ。

社会学は、と言うより、知的世界は90年代以降とんでもない構造的変動を経験している。それまでの「知savoir」の枠組みというものは別のものにシフトしてしまった。方法に対する明確な意識もなく、本を数冊読んでとりあえずフィールドに出てルポをするといった程度の論文が大量生産され、それらがお互いに目配せしあって曖昧な学問的基準を作り出している。最近40歳代くらいの優秀な研究者の書くものがある種の「いらだち」をにじませていることが多いが、恐らくその「いらだち」は今「知」の枠組みが訳の分からないものへと変貌し、思考の強度といったものが失われつつあること、そしてそれがどうにも押しとどめることが出来ないことに対するものなのだろうと思う。私を含め、古い「知」の枠組みを常識化している人間には、新しいそれは知の名に値しない、あるいは知のインフレ状況としか見えないのだ。

この変化はネットの出現によって爆発的に増大した記述の総量によっても確かに推進しされているのかもしれない(現代の状況はおよそ100年前円本の出現が小林秀雄の登場をメルクマールとする知の大衆化を引き起こしたことを端的に想起させる)。また、ポスト構造主義思想の恐ろしく安直な解釈が世の中に流通したためなのかもしれない(なぜ‘デリダを読んだ’という人間が‘構築主義社会学’とか普通に出来るのだろうか?まったく理解できない)。だが、この変化は、社会調査士資格の誕生と、これに応じた大学の科目改革、さらにそれによって教えることとなる教員の日々の講義といった数々の微細な実践によっても確実に推進されているのだろう。