歴史社会学の間違い方

まず、自分勝手な出来合のフレームで歴史的事実を裁断して文章を書くこと、これが間違いであるのは言うまでもない。厄介なのは、非常に緻密な思考を展開し洞察力もあり、ポリシー的には(私も両手を挙げて賛意を表したいと思うような)正論を語りながら、(なまじ思考力があるせいか)その思考それ自体のレリヴァンスを考えないという間違え方である。

優秀な人に限ってこの二つ目の間違いを犯す。もちろん雑な頭しか持たない人間の、一つめの間違いを犯している論文と比べれば数倍その論文は評価に値する。しかし、こういう人は、自分が考えている問題は歴史を生きた人々の問題なのか?、自分はいかなる権利で過去の人々が残したテクストの欠陥/不手際を語りうるのか?、何しろ可能な限り細密に考えることが歴史の真実を明らかにすることなのか?と自問する必要があると思う。次のような言葉は、歴史(に限らないが)を語る人間が肝に銘じておくべき言葉だと思う。

つとめて穿鑿すべし、つとめて穿鑿すべからず。かく反対せる二箇の用意を、一身に追ふべきは歴史家なり。爛漫たる嶺の桜と見しは、白雲なりしと言ふとも、水蒸気の凝れりしと迄は言ふことなかれ。陥り易き歴史家が弊は、穿鑿家たるに在り。

されど、水蒸気と知らず雲を叙し、雲と知らず桜を叙するが如きは、最も愚劣なる歴史家の事なり。

斎藤緑雨