EMのポリシー(続)

某大学某授業にて、記述を与えることとはどういうことか?を例に簡単にEM的分析をデモンストレートしてみた。一言も難解なジャーゴンを用いず、日常的な言葉遣いでこれ以上分かりやすいものはないだろうという水準で自分としては話したつもりだったので、自分では何の問題もなかろう、特別引っかかる点はなかろうと思っていた。ところが、学生は、こちらが何を言いたいのか、したいのかまったくポイントがつかめないという顔をする。EMのポリシーがざらざら書けるのにいい気になっていたわけではないのだが、改めてEMにおいてポリシーを語るということと、その実践との落差に愕然とし、また自分の説明能力のなさに憂鬱な気分になった。

まだEMのポリシーの説明をまったくしていないからかもしれない。しかし、恐らく、EMがつい口にする「一般社会学は説明するがEMは記述するのだ」とか「理論に媒介された説明vs成員の与える記述」とかいう台詞、あるいは「構造と実践の循環」とか「構造によって規定される実践、そして/あるいは、実践が産出する構造」とかいう台詞をどれほど繰り返そうと、この事態は変わらないような気がする。こんな事を100万回呪文のように唱えて見たところで、EMそれ自体の実践すなわち成員の実践について語ったことにはならない。ゆめゆめ、こんなポリシーを語れるようになったからといってEM的分析について語った気になってはいけないということだ(自戒を込めて)。

EMは記述を与えようとしているのではなく、すでに与えられている記述がいかに与えられているか、その方法を分析しているのだ、この意味でEMは形式的な分析なのだということを、どうしてこのような分析に移行する必要があるのかを含めて、適切に語らねばならない。これはある種の文体論の要請である。現在のEM研究に欠けているのは新しい文体論ではないか?

恐らくフーコーについて論じる際にも同じような問題がつきまとっている。上記「EM」をフーコーに置き換えてもまったく同じ事が言えると思う。フーコー・フォロワーにも呪文を唱えているだけの研究者が何と多いことか。