クレーリー『観察者の系譜』

97年初版の旧版は私が読もうとしたときはすでに絶版で、コピーするしかなかった。一昨年出版社を変えて新版が出ていたことをつい最近知り購入した。本文よりも訳者遠藤知巳が初版翻訳からほぼ10年を経て2005年9月に書いた「あとがき」が興味深かった。

遠藤知巳には、その書くものを読むたびに、本当にシンパシーを禁じ得ない。遠藤ほどフランス現代思想ポスト構造主義(正確には、日本が受け入れたそのバージョンと言うべきだが)が持っていた方法論的ニヒリズムを真剣に(シリアスに?)受け止めた人間は社会学業界でいないのではないか?大方の社会学者が「ポスト・ポスト構造主義」の課題として構築主義的な社会学に向かったり、フランス現代思想用語をちりばめただけの歴史物語作りに嬉々として勤しんでいる中で、遠藤はそんなものには見向きもせず、ある‘べき’記述の論理にひたすらこだわっている。遠藤は、現在の社会学者が自らの記述の組織論(私流に言えば文体論)に対してあまりにも無自覚であると考えているに違いない。垂れ流される社会学的記述の論理の欠如に怒りを通り越してある種の諦念を感じているに違いない。私はこの点で本当に心底遠藤に共感する。

しかし、クレーリーのこの本に関して遠藤が書く「あとがき」はどうにも歯切れが悪い。遠藤はクレーリーの記述法に対する違和感を一方で示しながら、他方でクレーリーの実体化、図式化は生産的に読みうると示唆する。個々のテキストは仮構であると積極的に認め、その仮構が不可避に示す外部への通路に思いを馳せることがテキストを生産的に読むことだと遠藤は言う。

この「あとがき」が自分の翻訳に対するサービストークなら何も問題はないが、10年以上真剣に考えた結果であるならあまりにも情けなくはないか?遠藤の言葉はは、テキストはテキストの戯れの外部に出るわけにはいかない、となればその戯れの中をいつまでも漂流し続けるしかないではないか、と言うのと何も変わらない。遠藤には自ら提示しうる記述の論理――当然それは単に抽象的に定式化されるのみならず、実際の記述において具現化されうるものでなければならない――といったものがあるのだろうか?聞いてみたいところだ。

記述をいかに組織するかなどという問題が存在すること自体忘れられている現状の社会学業界において、遠藤は貴重な存在であるのは間違いない。しかし、遠藤に対しては、とりあえず、方法論的ニヒリズム以後どうするかを悩むこと自体方法論的な悩みなのだとは言いたいと思う。いかなる記述(法)を採用するかという問題は研究者が悩んだり議論したりして解決すべき問題ではない。そんな権利を研究者は持ち得ないということを遠藤は知るべきだと思う。