小熊英二『単一民族神話の起源』

新曜社1995年

刊行直後に読んでいたものを再読。訳あって部分的に再読しようと思ったが、結局ほぼ完全に再読してしまった。

大量の人文学術書を処理する手際はさすが元『世界』編集者と今読んでも思う。難しいことは一切言わないのでさくさく読める。だが、記述上のアラが余りに多いのでこれに引っかかっていると思わぬ時間を食ってしまう。

小熊の問題はあくまで「単一」民族論の系譜。ある思想家が日本民族を‘単一’と主張しているか‘混合’と主張しているか?、これが小熊が数多くの思想家を整理する際の軸である。だが、そもそも単一とか混合とか言われる民族とは何か?に肉薄するということは小熊の課題ではない。後者の問題がそれなりに解明されないと前者の問題が宙に浮いてしまうのではないか、もしくは、記述上の不手際を引き起こすのではないかと思うのだが、小熊はそんなことに頓着しない。

確かに、ある概念をそれがどのような表現の中に現れるのかを解明する形で明らかにしてゆくという手法は概念の解明方法(の一つ)としてありだとは思う。しかし、民族概念のような典型的なマジックタームに‘単一or混合’という軸で接近しようとするのは無謀ではないか、むしろこのアプローチそれ自体が問題を錯綜させるものではないか、このアプローチを採用することがすでに民族概念の罠に捕らわれているのではないか、だから、今ここでこうして(小熊のような)民族論を書くことが(小熊が結論とする「神話の脱却」どころか)‘単一か混合か’と論じられる類の民族の神話を再生産するのではないか、ということはほんのわずかであれ考えられてもよかろうと思う。このことがほんの少しでも考えられていれば、結論部で、単一にせよ混合にせよ日本の民族論が社会学的民族類型論に収まらないとされた上で、その曖昧さの起源が家制度へとずらされ、「他者に直面しろ」というありきたりな(でも、一般受けはしそうな)結論が語られるという事態は避けられたのではないかと私など思うのだが、まあ、こんなこと今の小熊にとってもどうでもよいことなのだろう。