アリス・ウェクスラー『ウェクスラー家の選択』

武藤香織・額賀淑郎訳、新潮社、2003年

奇蹟の本。

著者自身と妹(ナンシー・ウェクスラー)がハンチントン病患者の母親を持ち(2人とも)50%の確率でハンチントン病に罹患するする可能性のある者であること。父親が精神医学者でありアメリカのハンチントン病患者組織の創始者(の1人)であること。著者と妹がともに大学で研究者となり(それぞれ中南米研究者、心理学者)、さらにハンチントン病研究に自ら携わること。父親そして妹が、患者と研究者、研究者相互を結ぶ新しいネットワークの立ち上げに成功し、かつこのネットワークを政治的に機能するものへと仕立てたこと。何よりも、その研究ネットワークがハンチントン病遺伝子の遺伝子マーカーを用いたマッピングに成功!すること。…etc、etc。こうした事柄のどれ一つをとっても、とてつもなく稀少な経験だ。ハンチントン病患者である確率だけをとっても(白人の場合)10000分の1弱。ハンチントン病の遺伝子マッピングだって、ナンシー・ウェクスラーの表現で言えば、北米地域の中で迷子になった1人の旅行者を捜し出すようなもの。これらの事柄を1人の人間が同時に経験する確率はどれくらいなのだろう。気が遠くなりそうな確率であることは間違いがない。こうした事柄のどれか一つが欠けても、この本はあり得なかっただろう。まさに奇蹟の本だ。

この本の価値は、アリス・ウェクスラーがその稀有な経験によって切り開いた新しい記述のジャンルにある。訳者が言うとおりp357f、この本は「内部の立場」からのハンチントン病の記述と、「歴史家」の立場からのハンチントン病史(研究史、支援史)の記述という両面を兼ね備えており、「家族の物語だけでも忠実な科学史でもない、新しいジャンルを作り出すのに成功している」。この記述のジャンルこそ、「生命倫理の実証的展開」、「新しい公共圏」、「新しいケアの倫理」、「遺伝学的市民」という言葉によって総括される経験を語るに相応しい記述なのであって、というよりそうした経験そのものである。新しい経験の領域の出現と新しい記述の論理の出現は区別できない。

この新しい記述のジャンルの出現を肯定的に評価し自らこの記述を(自らの置かれた立場に相応しい形にアレンジして)実践してもよいし、あるいはこの出現自体を歴史的に相対化し考察対象としてもよい(私としては後者を選ぶ)。最悪なのは、経験の可能性と記述の可能性の不可分性を深く考えないまま、アリス・ウェクスラーに言及することだ。いくら「新しいケアの倫理」とか語っても、ありきたりの歴史家的観点からのみからする古くさい記述を繰り返すのであれば、それはいわば科学者による市民(家族)の囲い込みに過ぎず、それゆえ結局アリス・ウェクスラーの実践をその根本において裏切ることになってしまうに違いない。

まあ、ちょっと意地悪な見方をすれば、アリス・ウェクスラーが語るハンチントン病患者(+家族)-研究者のネットワークの感動的な成功譚は‘ある面で’、アメリカの政治的多元主義の上澄みのようなものであって、これを語っていればこうしたネットワークが日本でも自生的に展開してゆくようになるなどおよそ考えられるものではない。日本で「新しいケアの倫理」を実現しようというのであれば、日本でいかなる経験の論理、記述の論理があり、今後ありうるのか、よくよく注意して見極めねばならないだろう。「新しいケアの倫理」を結局画餅に終わらせないためには、こういう地道な努力をする必要があるのではなかろうか?