質問

後期開始以来、ある学生の質問に驚かされている。


この学生は以前、私に次のような質問をした;先生の論文は「作動形式」という言葉がキーワードのようだ。この言葉を論文結論最終文で使ったり、論文タイトルに使ったりしている。これはハッキングが「Social Construction of What?;SCW」で言うところの「形式form」を意識してのことか?(大意)

論文を書いた当の本人がまったく意識していなかった。が、言われてみれば、確かにその通りだ。彼は、SCWについて私が前期授業で(ほんのわずかだが)触れたので、今年の夏休みに未翻訳部分も含めて読んだのだという(しかし、あの邦訳はなぜ全訳で出さなかったのだろう?ハッキングの日本での扱いはひどくないか?)。まったく信じがたいことだが、彼は学部3年でハッキングの未翻訳の論文を読んで、その趣旨を十分理解している。そして、私の論文を、部分的には、私以上に理解しているようだ。


で、先日された質問は;某社会学者が語る言説分析の困難(言説分析は超越性/全体性を担保している)について、先生はどう思うか?(大意)

彼は私の論文から言説分析について調べたのだと言う。この質問は昨年もある学部生からされたのだが、どうやら、言説分析の批判は学生の目に付きやすいらしい (あのタイトルであの内容の本なんだから、事情はよく分かる)。私は、はっきり言えば、世の中に出回っている「言説分析」というものには今やほとんどぜんぜんまったくいっさいシンパシーを感じないので、それが批判されようがどうしようが知ったことではなく、またデリダを彷彿とさせるあの議論(批判)の水準に脱力感しか感じないので、いくらでも論争でも何でもすればいいと思っている(大恩ある某先生からは、論争に参加して自らの立場を明らかにするよう促されたがおよそ食指が動かない)。あえてコメントをと言われるなら――言説分析批判はあくまである種の歴史研究方法論に対する批判で、歴史の研究ができないことの論証でも何でもない。歴史を語るということは決して特殊な営みではない。様々な人々が様々に歴史を語る。確かに、人々は、決して「該当事例を2504例集めた結果言えることだが」といった注釈の下で、歴史を語ることはない。(そうした注釈を一般の人間が語ることもあろうが、それはかなり特殊な文脈においてだろうと思う。)でも、そうした注釈を欠くからといって、人々が語る歴史がいい加減だとかナンセンスだなどと言ったら、これ以上の科学主義もなかろう。とするなら、その人々の歴史を語る(秩序を探る)その方法に準拠して歴史を語ることは可能だし、これ以上の歴史の真実を語る方法もないだろう――ということぐらいかな。これで許して下さい。


また質問してね。