<EM vs 哲学>

M.リンチ「コンテクストのなかの沈黙」――表題のテーマを掲げる「カテゴリー対で発言が組織された」ある研究会での議論を聞いていて真っ先に思い浮かんだのがこれ。(ブレイクで隣に座っていたIさんにこのことを言ったら同意して下さったので、この直観はそう外れていないだろうと思う。)


この論文の冒頭、リンチは、サックスがある学会で「もし私があなたの頭に銃を突きつけて、『あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください』と言ったら、あなたは誰の名前をあげますか」という質問に対して長い沈黙の後、「その質問には答えられない」と言ったというエピソードを紹介して次のように書く。

この出来事は、理論化に対するエスノメソドロジー固有の――人によっては‘尊大な’と言うであろう――態度を象徴するものである。ここで「理論化」ということで、私は、著名な著述家、基礎的な文献を讃える知的系譜を構築する作業のことを意味している。これは、文献群に経験的研究を指示するという、より広範な努力の一部をなすものである。この指示の作業は、抽象的な主題や問題を同定し、命題や公準を定式化し、共通する問題を明確化し、仮定や前提をある著者、ある学派に帰属させようとする学問的努力によって促進される。この作業は、ある文献データを入力したり解読したりするということに限定されるものではなく、それは方法論、つまりは研究構想を学問的伝統に結びつける基準、決定規則、モデルの使用にも関わっている。このような試みの要点は、基本的規則を取り出し、社会思想における何らかの文献伝統に対して知の歴史を構築することである。自然科学や社会科学には、このような要約的定義に合致しない理論の実例がたくさんあるかもしれないが、私は、これは社会理論や、社会科学の哲学の支配的なスタイルにあてはまると思う。この理論化の要請をエスノメソドロジストはいつも拒絶しているわけではない。我々はほとんどみな、文献の系譜を再構築し、エスノメソドロジーの研究が一般的な社会学的、哲学的問題にどのように関連しているのかを議論することが必要であり、興味深いことでさえあると考えるときがある。サックス自身、折に触れてこれを行った。しかしながら、エスノメソドロジーの研究プログラムを哲学や理論や経験的研究の先行者へと遡及させようとする試みによっては、サックスの拒絶が明確化したことを解き明かすことはできないと私は思う。サックスは単に自分の思想の源泉を明らかにできなかったのではなかった。そうではなく、彼は、思想の源泉が学問的系譜の中にあるに違いないという対話者の前提を受け入れることを拒絶していたのである。
 理論的に語れ――社会思想の文献伝統に同一化せよ――との要請に対するエスノメソドロジーの沈黙は、あまりにも容易に、エスノメソドロジーは非論理的だという見解を助長してしまう。以下論じるが、仮定や前提を明らかにしたり、文献的系図を描くことを不作法に拒絶し、沈黙することは、前提なしに研究しようという素朴な試みによって動機づけられるものではないし、また、エスノメソドロジストは世界をいかなる先入観も偏見も持たずに何とか探求するのだという、考えてみればいい加減な示唆を表すものでもない。私見では、この拒絶はそのようなことではなく、文献的知識という特異な、そして徐々に受け入れがたいものとなっている概念と結びついている。理論的に語るべしという要請に応じることの拒絶は、エスノメソドロジーが前提を持たないなどということではなく、その要請、つまり「あなたの考えが何に由来するのかを述べよ、もしその知識がないなら、我々がそれを述べられるようヒントを出せ」という要請にまつわる居心地の悪さと関係があるのである。このような要請は、「思想」というものは一つの、もしくは二、三の簡潔な文で表現されるべきだということを要求しており、さらにこの要請は、今ある思想は学術書を書いた有名な著作家によって表明された、関連する思想に由来しているということを仮定している。

リンチの結論。

彼の[理論化の]拒絶は、エスノメソドロジーを一つの実践として作り上げようという、より一般的な努力と整合するものだったのである。この実践はある種の経験主義を含んではいるが、それは馴染み深い種類のそれではない。他の経験主義的な試みと同様、エスノメソドロジーは衒学を拒絶する傾向を持っている。エスノメソドロジーは、研究対象である世界を理論的洞察の主要な源泉としているのである。しかしながら、世界とは諸事実を収めた一つの収蔵庫であるという経験主義の周知の見解とは異なり、エスノメソドロジーにとって世界とは理論的な個別指導の源泉である。世界は形式と構造からなる不毛の風景ではなく、日常語で表される区別と主題の精通者が住まう生活世界なのであって、社会理論はこれら区別、主題を学問的な談話の問題へと言い換えているのである。世界という源泉へのエスノメソドロジーの転回は、観念から実体への転回ではない。そうではなく、それは、社会理論や哲学で繰り返される問題に関する指示を産み出す世界という源泉に向かうということなのだ。……………

エスノメソドロジストは他の学問を評価しようなどという野心を持った学問とは無関係だった。他の者が個々のコンテクストの超越、メタ言語の創出、暗黙の規則の定式化、見せかけの理由の下にある「真の関係」の解明、明らかな否定に隠された深層の欲望の発見といったことを試みようとも、エスノメソドロジストはこれらに無関心であり続けたのである。これらすべての自己権威付けの方策に対してエスノメソドロジーが無関心であれば、エスノメソドロジーには何も語るべきことが残らないようにも思われるかもしれない。しかし、他の者がそのような方策に固執し続ける限り、エスノメソドロジーの沈黙は言葉以上に雄弁なものとなろう。


おまけ1。
研究会でのEM側からの発言がみな、各研究固有の事情について語るという回答方法を採っていたという点に関しては、以下を参照のこと。みなさん、EMを実践してましたね。素晴らしい。

エスノメソドロジーが名前、歴史、文献を持ち、エスノメソドロジーに多少とも関わる、緩く結びついた一群の人々が存在するという事実からすれば、私が明らかにした以上の何かがエスノメソドロジーに関して存在するのは明らかであるようにも思われる。完全な理論あるいは純粋な方法論の解明まではしなくとも、多様なテーマ、範型的事例、研究原則、歴史的業績、経験則、特徴的スローガンやキャッチフレーズ、専門語、論争、そしてその他にもごまかしや汚名といった、エスノメソドロジーの同定に役立つものの目録を作ることは多分可能であろう。ここでこの課題を取りあげるつもりはないが、私は、このような雑多なものの寄せ集めの目録を作るほうが、エスノメソドロジーのプログラムを説明するよりも、実践の現実的説明となるであろうと信じている。偶然にせよ故意にせよ、エスノメソドロジーは日常社会の無数の方法に言及する言葉として存在しているだけでなく、学術的な「もの」として存在している。その存在は統一的な理論、方法を含意するものではないし、またそれを構築しようという努力を求めるものでもないのである。


おまけ2
EMが他の理論に対して批判を行うという点に関しては、例えばサイエンス・ウォーズにリンチが言及して語る以下を参照のこと。(この論点って、EMに対する疑問と言うより、他の理論を批判しているある特定EM人物に対する疑問って感じでしたね。違いますか?)

私は、エスノメソドロジストは科学者の行っている実践の暗黙の側面、無意識の側面、矛盾する側面を彼らに教示するべきだと言っているのではない。科学者に新たな情報を与えたり、彼らの偽善を暴くことが目的なのではなく、単に自分たちがどのようにそのワークに取り組んでいるのかを彼らに想起してもらうことが目的なのである。私は、このような研究で実在論者と構築主義者の論争が終結するとは考えていないが、そこでの混乱をいくらか取り除くのに役立つとは思う。

出席条件としてリンチのこの論文を読んでくることとすべきでしたね。……………終了。

(ちょっと引用が多すぎるけど、ただ働きだったんだからこの程度許してくれともいいと思う。)