リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』コメント1

(以下、札幌で言ったことの大雑把なまとめ。)

1 シュッツ、あるいはプロトEMについて
1;基本的確認
リンチは非懐疑主義ウィトゲンシュタインとの連携で有名だが、この本の中で改めて気になったのはポスト構造主義、特にデリダに対するそのシンパシーの表明。本書でリンチがデリダから何らかのインスピレーションを受けていることは間違いがない。

そのインスピレーションの核は恐らく;(既存研究/社会学に対するEMの)「寄生parasite」という言葉に表れている。(ただし、この言葉は生物学を意識してのものでもあろうが。)

p056(1章結論)
ある意味でエスノメソドロジー社会学という学問領域の寄生者であるが,宿主を抜け殻にしてしまう寄生者と違って,エスノメソドロジーは形式分析の源である「生(胎)」を記述することにより,形式分析によって産出された生なき訳解を新たに活性化しようとしているのである.

この論点は1章では漠然としているが、結論で詳細に反復されている。

p361(結論)
本書において私が批判してきたのは,社会科学者が日常実践や科学実践についての自分たちの考え方を権威づける際に使うさまざまな分析的な指し手である.そして,私は「ポスト分析的」研究プログラムが,おなじみの認識上のテーマをいかにして取り上げるかということを提起してきた.ポストという接頭辞は,現在,人文科学や社会科学においてとてもポピュラーな,ポスト構造主義ポストモダニズムのアプローチとの連帯を示している.「ポストモダンの条件」の研究者によってしばしば行われている壮大な史的「段階」についての大雑把な主張は避けて通りたいのだが,私はある意味でポストが魅力的であることに気づいた.ポストは,その後に続く言葉の反対ではなく,その「後」という時間的な(再)配置(dis)placement[déplacement]を示しているという点でアンチとは異なっている.直接的な抵抗や逆転は,「フリープレイ(無制限の活動)」に置き換えられる.ポストモダン建築は,過去の様式へのアイロニー的連帯を維持しながら,さまざまなやり方でモダニストスタイルと自己のスタイルを対抗させて利益を得るのである.

私はポスト分析的な科学研究を主張することによって分析との縁を切ろうというのではなく,すでに確立した分析法との回顧的な関係retrospective relationを提起しているのである.


デリダディコンストラクションが既存の言説(形而上学)に寄生している(形而上学の言葉がなければディコンストラクションを語ることもできない)ように、リンチの言う「ポスト分析的EM」も既存の分析に「寄生」している。リンチはデリダに対して、無論多くの差異を認めながらも、超越性(超越論的意味)を批判するということが何をもたらすのか、もたらすべきなのかという点で、デリダから示唆を受けたのだろう(と思う)。だから、この点からすると、大雑把には、EMの既存分析に対する「寄生」のあり方を詳述するのが本書といういうことになる。

エスノメソドロジストはデリダが大嫌いだろう。クルターなど「デリダは知的刺激を与えるだけ」と言いきっている。その理由はよく分かる。別に私もデリダをどこまでも擁護しようなどと思わない。だが本書でリンチをインスパイアしたデリダがいることは間違いがない。EMとデリダの関係がリンチが理解するようなものではないとしても、リンチの記述がどういう意図からなされたのかを考えることは、本書を理解するには、絶対に必要と思われる。

そもそもデリダに関する社会学者の読解は大方、デリダを解釈主義的問題を開始するためのきっかけとして利用するというもの。「現象xは原理的に考えると決定不能です→でも、現実にはもちろん可能になっています→じゃあ、原理的に不可能なことがどうやって可能になっているのか、社会学的に考えてみましょう」、「デリダ的議論の後こそ、社会学の出番ですぅ」――大方の社会学者のデリダ理解とはこんなものだろう(そして、それゆえ、社会学業界においては、デリダは批判しても誰からも文句を言われない存在となって、叩き放題のサンドバッグである)。こんな馬鹿げた理解がすでに蔓延していた90年代初頭、リンチが示したデリダ読解は極めて特異だし、恐らく社会学者が示したデリダ読解としては飛び抜けて優れていると思う。

デリダは1から10まで間違っていると信じて疑わず、デリダを勉強しても何のためにもならないと思う者は、リンチのデリダ読解などという問題を考えなくてもよい。しかし、本書のキーワード中のキーワード、<プロトEM vs. ポスト分析的EM>の区別が、ポスト構造主義、とりわけデリダからの示唆によるものである以上、この問題を考えない者は、<プロトEM vs. ポスト分析的EM>などといった区別を決して口にするなと、そして過去この区別を使い何某かのことを語った気になった者は反省の一言でも語るべきだろうとは、思う(私は本書の出版以後多くの者がこの区別を語っていたことを覚えているが)。