はるかなるサウサンプトン

また花粉症の季節。今年の花粉飛散量は昨年の6〜7倍とか。この10日ほどひどい状態です。

予定通りなら、吉田のセインツとリヴァプールのゲームを見るために今頃ロンドンの空の下にいるはずだったのに・・・。現実は・・・東京の空の下、花粉まみれ。



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http://d.hatena.ne.jp/Zephyrus/20130219/1361276834の続き(ちょっとだけ)。

社会学者って、ウェーバー以降、研究者の超越(論)性を批判してきたわけだけど、その解決策、反超越性のイメージは「内側に入る」。「我々は社会の外側から社会を観察できるはずがない! 我々は社会の内側から社会を観察するんだ!」って。で、「内側に入る」ことは一部社会学者の至上命題になった。で、最近出てきた台詞は「人々の‘今-ここ’の相互行為に寄り添う!」なんてやつ。

一部社会学で「相互行為」とか「対話/会話」が神聖視されているのは、この思考風習の影響だろう。そして、歴史の研究と聞くと、即座に「それは超越性をどこかに担保してるはず」とか考えてしまう人もまた、恐らくこの思考風習を持っているんだろうと思う。

本当なのか? 「内側に入る」ことが反超越性への道なのか? フッサールはかつて「今-ここ」の純粋な関係性を客観性の起源と考え、その純粋性を追い求めたわけだが、真逆であるべき、社会学の反超越性への道はどこかフッサールの道に似ているようにも思わないか? 社会学的反超越性への指向性がフッサール的超越性への指向性に似ているというパラドクス(?)。

ウェーバー以降の社会学の「内側に入る」という空間的イメージこそ、実は超越性を温存する仕掛けだと早く気づいてはどうか?――恐らくフーコーなら社会学者にこうアドバイスすると思う。



以上、今日、あるEM論文を読んで感じた感想でした。「人々の‘今-ここ’の相互行為に寄り添う!」なんて言うのはいいけど、それを「内側に入る」ことの延長で理解しちゃいけないよ。重要なのは「人々の‘今-ここ’の相互行為に寄り添う」ということは、何をすることなのかをちゃんと理解することだよ。