ローズたち2
(蓮実重彦がどこかで書いていたことだが)映画評論家の淀川長治は、一本の映画を見終わるとその美しいシークエンスしか憶えていない、ただしその美しいシークエンスに関してはこれを詳細に憶えているという稀有な才能の持ち主だったという。
つくづく羨ましい。自分が真逆だから。他人の作品(研究)の欠点、欠陥を考える中からしか、自分の考えを導けない。困ったものだと自分でも思うが、しょうがない。
で、ローズに関しても、何か素直に落ちていかないところをちまちまと考えている。まったく要領が悪い。
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恐らく、ローズが優生学を現代的なオブジェクトではないと見なす理由は、その大きな歴史的ビジョンに‘も’あるのだろうと思う。簡単にまとめるとこんな感じか;
市民は(国民)国家との関係で長く思考されていた。そして、そうした国家(的)-市民概念において、生物学的概念は実は、重要な役割を果たしていた。国家-市民としての自覚はその生物学的次元、人種/民族そして優生に覚醒することだった。様々な人種差別政策、優生学的政策は、国家-生物学-市民のトライアードの産物だった。
しかし、現代、国家は様々に問題化している。国家は国民経済を伴った文化的もしくは宗教的統一体の維持のために、市民を出生、血統、人種の観点から制約しようとするが、政治的、経済的な理由による市民の流動性がこれに挑戦している。こうした国家の後退により、国家-生物学-市民のトライアードは変形、部分的には消滅して生物学-市民のダイアードが前景化しつつある。
確かに、人口、個人の生物学、遺伝学的構成に対する関心は、依然国家政治的関心事であり続けてはいる。例えば;
- 国家支援による公衆衛生
- 国家予算でなされる健康促進策
- 医療ケアの日常となった各種実践(eg羊水穿刺、絨毛膜標本採取)
だが、他方、かつての国家(的)-市民とは大きく異なる特徴を示す、国家バイアスから解放された市民が、生物学-市民のダイアードの中に現れつつある。つまり、生物学(的)-市民biological citzenshipの出現。
その特徴は具体的には;
- 人間的価値;現代の生殖実践(選択的中絶、着床前診断、胚選択)において参照される人間的価値は、かつてのそれ(断種)(同)と異なる。
- (1と絡んで)市民の生物学的責任;現代の生物学的責任(個人の自らの、親族の健康と健康教育に関わる規範)は、かつてのそれ(国家、社会的な責任規範)と異なる。
- 市民-アイデンティティ実践;現代的アイデンティティにおける身体的意味は、かつてに比べて大きく増大、変化した(表層的レベルから分子的レベルにまでいたる身体に介入する新技術の出現によって)(eg美容整形、遺伝子セラピー)。
- 「剥き出しの生」;現代的な「生」の基本概念(様々な権利主張の基礎となる)は超国家的実践に結びつくようになったが、これはかつてのそれと異なる。
- 「人口=資源」論;現代、国家の人口に対する関心の一つは、自国の市民集団の遺伝子特性が知的財産権の産出の資源となることだが、これはかつてのは民族の純化というかつてのそれと異なる。
よって、かつての優生学的に規定される国家-市民はもはや後景に退いている。
(続)