スタイル

どの論文を読んでもテーマは違えど、その書き方が全然変わらないという人がいる。読む度に「ああ、また**節だな」(**=固有名)って思う。

確立したスタイルを持っているということは素晴らしいことなので、いいと思う。スタイルの確立は、論文の大量生産のための条件だし、それゆえ学問世界内で認知されるための条件でもある。芸は身を助く。

でも、同じスタイルで論文を書き続けるなんて、個人的には、いやだ。絶対したくない。実際してこなかった。何しろ、毎回新しいスタイルで論文を書きたい。新しいテーマ、新しい論点を、それに相応しい新しいスタイルで書きたい。目標は、一読した読者に「大量の思考が詰めこまれているのは分かる、が、これは論文としていかなるものなのか?」という感想を与えること。内容以前に形式で語ること。(大昔、ガーフィンケルやサックスの論文を初めて読んだ時、感じたのはこうした感想ではなかったか? 今、EMCAはこうした感想を読者に与えられているのだろうか?)

記述スタイルの問題はほとんど誰も真剣に考えていないように思われるが、これは概念分析を展開する上では絶対真剣に考えねばならない問題だろうと思う。概念分析の分析対象は、ある場の中で固有の形で組み上げられた記述の展開-配備、すなわち場に固有の記述のスタイル(形式)だ。これを分析する者が、自らの記述のスタイルに無頓着であっていいはずはない。同一のスタイルで多様な場を記述するなどできるはずがないではないか。あるいは、何かしらの(場に外在的な)限定をかけなければできるはずがないではないか。概念分析はたえず新しいスタイルへの挑戦であるべきだろう。概念分析の論文を読む時のポイントは、その論文の個々の主張などではなくそのスタイルでなければならない。スタイル確立の苦労はなされているのか?

概念分析的課題を語りながらも、その記述スタイルが構築主義的レトリック論や、メタファー論、はてはデュルケムやウェーバーの記述と大した違いがないなら、その論文は構築主義的分析、デュルケム的分析、ウェーバー的分析「である」と認めねばならない。構築主義、デュルケム、ウェーバー、何も恥じることはない。はっきりそう言えばよいだけの話だ。

だが、こと概念分析においては、スタイルに無頓着な人間の論文は信用できない。・・・と恐らくハッキングも内心思っているだろう(cf.Historical Ontology §12)。ハッキングも色々なスタイルで論文を書いているではないか。

スタイルの概念がよく分からない? ハッキングも延々とそう言われ続けてきた。ハッキングの説明を全面擁護するつもりはないが、一義的に明瞭化できない事柄というのもあるということを少し考えてみるべきだと思う。分からない奴はいつまでも分からないと言ってろと言いたくなる時が時々ありますね。