シュッツの他者理解の理論

講義準備でまとめてみた。

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『社会的世界の意味構成』3章に先立つ2章において展開される、自己理解(自己の有意味的体験の理解)の現象学的分析は、ベルグソン的「持続」を指摘することから開始される。シュッツの理解(p61)では、ベルグソンは、持続を「多様な質量のものが継続的に生成し、生成し去る事態」と把握している。「‘純粋持続’には、いかなる並存性、いかなる外的連関性、いかなる可分性もなく、むしろただ流れの連続性、一続きの意識状態があるのみである」。それは正確には状態とすら言えない。それは「縁取りされ、明確に区別されている事態ではなく、今そのようにから、新しい今そのようにへのたえざる移行」である。それはいわば対象とも言い難い非同一なる「流れの連続性」なのである。*1

自己解釈の現象学的分析は、かかる「流れの連続性」の中から同一なる対象が対象として浮上する様を分析してゆくが、それは、周知のように最終的に自己の反省能力に訴求するものである。つまり、現象学的には、自己理解は基本的に過去にその場面を持つのであって、未来の行為の投企と言えどそれがいつもすでに過去を参照する限りにおいてこの過去の権能を超え出ることはない。意味は過去の中でのみその同一性、客観性を維持できるわけである。シュッツの現象学的分析は我々の体験を生の体験と思考の体験に分断するが、「持続経過における生の内部には意味問題の余地はない」のである。意味の場面は徹底的に過去である。*2


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他我解釈問題においても、かかる意味の存在様相に関してシュッツはいかなる変更も加えていない。一切の現象学的分析が自然的態度における他我解釈に応用できると、シュッツは明言している。

異なるのはその分析の起点である。他我解釈の問題においては、もはや‘私の’持続が問題化されるだけでは不十分である。分析の起点、それは、私と汝に共有される持続でなければならない。私と汝は同時性の中にいる。他者解釈問題の起点はこの同時性の場面である。シュッツはこの点に注意を喚起している。

私が私の体験に目を向けるには、私は反省作用においてこれに配意する必要があるが、他者の体験に関しては、その必要はない。他者の非反省的な、それゆえ前現象的な体験に関しても私は「眺める」ことにより把握できる。他者の体験については実際の経過を眺めることができる。これはある特殊な意味で、汝と私が「同時的」である(「共存する」、その持続において「交差する」)ことを意味する。


同時性とは、「私の意識からすれば、一つであっても二つであっても変わらない二つの流れ」(ベルグソン)の性質である。それは、汝の持続の構造が私のそれと同じという本質必然的な仮定の表現である。汝の持続は、私のそれと同じく、純粋な持続、自己自身を体験する連続的で、多様で、かつ不可逆な持続である。

シュッツの他我解釈の分析の課題は、この‘交差する’持続の中から意味が現れる様を分析することである。正確には、我々はいつもすでに他我を解釈しているのであるから、なすべきはその解釈に際して何が生じているかをつぶさに観察すること、これが自然的態度の構成的現象学の課題である。

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シュッツが自己意識内における意味分析を経て他者理解の問題に着手する際の最初の確認事項は、他者の体験が自己の体験とはまったく異なる形でなされているということである(p138)。

他者の体験に付与される意味は、意識の中で他我が自己解釈の過程を通して構成される思念された意味ではあり得ない

もし自己の知覚を厳密な意味での知覚と言うなら、他者の知覚は妥当な知覚、直観ではない。現象学的分析においては、他我は客観的世界内に存在する一個の物理的対象に止まり、決して汝によって思念された意味には到達できない。他我は現象学的パースペクティヴにおいては物理的対象ではあっても、精神-物理的対象ではない。

このゆえにこそ、他我理解の考察においてシュッツは現象学的分析(本質学)から離れ社会学的分析(事実学)へと移行するわけだが、シュッツによれば、これは他我の体験が記号によって媒介されざるを得ないからである。自己解釈から他者解釈へと分析が移行すると同時に前面化するのは、記号である。

超越的に方向付けられる作用(内在的に方向付けられる作用に対するところの)(フッサール)、つまり他者に向けられる作用において、知覚は妥当な知覚、厳密な意味での直観ではない。我々は、他者の心的体験の把握をもっぱら意味-シンボル的表象において行う。他者の心的体験の意味把握において、他者の身体は単に対象事物世界の現れとしてだけではなく、他者がその持続流の中で他者の身体の動きに関係づけるその体験を表す記号Signumとしても捉えられる。他者の身体の動きは、他者が「思念された意味」を結びつけている体験のしるし(標識)と解される。

表現行為[被観察者の意識経過の中で常に意味がある身体の振るまい]の理解にとって、この表現行為が身振りとか音声連関(言葉)の措定にあるのか、それとも身体から切り離された人工物であるのかは、原則としてどうでもよいことである。表現行為とは、人工物が措定されることであれ、身体動作が措定されることであれ、すべて記号の措定なのである。

いわば、他我の現象学的分析を阻むのは記号なのであって、逆に言えば、他我の処理は記号の処理なのである。*3

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要するに、シュッツは次のように考えている。

1.他者は記号に媒介される限りにおいて他者であるのだから、他者理解とは記号の意味内容の確定である
2.だが、‘交差する持続’においては、記号の意味内容の確定がなされることもなく、会話が続いているように見える(自然言語の指標性)
3.他者理解が事実なされている以上、記号(発話)の意味内容は確定されているはずだ
4.これはいかにしてか、どのようなメカニズムによっているのか?

それゆえ、シュッツの他者理解の課題は次のように言える。私と汝が共有する持続つまり「交差する持続」の中から記号を介して「他者の思念された意味」が現れる際、その現れに伴う概念配備、実践装置を記述すること、これがシュッツの他者理解の理論の課題であった、と。

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こんなマニアな話、講義できません。

*1:それゆえ、ベルグソン的な意味での「持続」は不変性を意味するフッサール的な意味での「持続」とは対照的な意味を持つ。シュッツはフッサール的持続とベルグソン的持続が正反対の概念であることを注内で述べている。

*2:すなわち、ベルグソンの持続をシュッツは意味経験のために抑圧されるべき、意識の不定形の流れと考えている。これは例えば持続こそ生のあり方と肯定的に捉えるドゥルーズの解釈と比べるとあまりにも異なる。

*3:1930年代初頭に提示されたこの理解は、シュッツ最晩年の50年代半ばに出版されたSchutz[1955→1962:313ff=1985:145ff]においても正確に反復されている。他者理解の問題を記号理解の問題、間接呈示の問題とする問題構成を、彼が反省することはなかった。