薄い記述vs厚い記述

「薄い記述」と「厚い記述」とは何かということは今も問題であり続けている。私も一昨年論文内でこの点について触れたし、MEDさんもまったく同時期にこの言葉に触れている(あまりに、それが同時だったので驚いたのだが)。


この言葉に関して、EM者がまず最初に参照するのは、シャロック&ボタン(1991)'The Social Actor: Social Action in Real Time'だろうと思う。シャロック&ボタンは結論部で大旨次のようなことを言っている。

社会的行為の特徴付けは、ライルによれば、「厚い」記述の問題だ              
カメラのような記録装置によって捕捉される「薄い記述」
カメラで捉えられない、意図、目的、状況、歴史、展望などを参照して行為を同定する特徴付けが、「厚い」記述
ライルは薄い記述が行為を正確に特徴付けていないと言っているのではなく、それは単に薄く特徴付けていると言っている
ライルの言葉は単に、行動と行為の差異を述べるだけのものではない(もちろんこれはEMにとって重要だが)、微妙に異なる、さほど評価されていないポイントに貢献する
つまり、行為の記述は、「社会的」行為の記述に関連している、というポイントである
社会学者はこの点を一般に、喜んで認めるが、にも関わらず、「社会的」行為の「薄い」記述を選びがちであるように思われる

これはいい。完全に正しいと思う。


ただ、私がさらに考えるべきと思われるのは、「社会学者はこの点を一般に、喜んで認めるが、にも関わらず、「社会的」行為の「薄い」記述を選びがちであるように思われる」という部分だ。

まず、1;どうして社会学者は薄い記述を選んでしまうのだろうか?
さらに、2;薄い記述と厚い記述という言葉を有名にしたギアーツは、きっちりシャロック&ボタンの意に適った厚い記述を展開したのだろうか?


2;について
私見で結論を言えば、ギアーツの記述は(すべてとは言わないが)基本的に厚い記述となっているとは思えない。ただ、人類学のレジェンドで、故人でもあるギアーツを(今さら)批判するのは、非常にリスクが高く、割に合わないので、EM者はこの点を語っていないだけだろうと思っている。

実際、著名なヴィトゲンシュタイン派EM者がギアーツの論文に、紙幅を割いて肯定的な論評しているのを見たことがあるだろうか? シャロック&ボタン論文もギアーツの名前こそ出してはいるが、重要なのはライルであって、ギアーツではない。リンチはその主著‘Scientific Practice and Ordinary Action’では、注の中で1回だけ、ほんの通りすがりにギアーツの名前を出しているだけだ。

ギアーツの厚い記述を肯定的に論評しているのは、(人類学者以外には)何よりも歴史学者だということ、そして歴史学者達のその評価においては、ギアーツは解釈主義者であるということ(例えばダーントン)をよく考える必要がある。歴史学におけるギアーツという問題設定は歴史学のものなので、なかなか敷居が高く手も出せないとは思うが、最低限、ギアーツとライルを一元的に論じられるかどうかはよくよく考えてみた方がよいと個人的には思う。

(ただ、こうした事情は、ギアーツの分析が評価に値しないということを導くものではまったくない。)


1;について
恐らくだが、ギアーツですら薄い記述を選んでしまった。いくら薄い記述と厚い記述は明確に区別されないとは言え、少なくともギアーツの記述はEM者にとってさほど言及するに値する記述とはなっていないのは間違いないと思う。となれば、一般社会学者が薄い記述を「選びがち」なのも無理はなかろうと思う。

問題は、なぜなのか? なぜ、社会的行為の薄い記述を選んでしまうのか?

理由はシャロック&ボタン論文を読めば、大体推測出来る。シャロック&ボタン論文は、そのタイトル(The Social Actor)から分かるように、全編が「社会的」ということの解説であるが、これは一般社会学者が考える「社会的」という概念を根本的に変形するものになっている。シャロック&ボタンはあくまでそうした「社会的」という概念を「厚い」という概念に結び付けているのであって、一般社会学者が、素朴な「社会的」という概念に基づいて、例えばただ単に人々の活動をそのコンテクストに即して緻密に記述すれば、「厚い記述」に到達できるなどと考えることはまったくナンセンスである。

そして何より重要なのは、シャロック&ボタン論文は、どのような記述、どのような経験的研究を行えばよいかを積極的に指示するものとはなっていない、ということである。ウィンチの『社会科学の理念』も、いくら精読しても、「では、どのような経験的研究を行うべきか?」はまったく分からない、それどころか、「経験的研究(経験科学)を放棄すべきではないか?」とすら思えてくる論考だが、シャロック&ボタン論文も何をどうすればよいのかはまったく教えてくれない。「社会的」なるものは徹底的に否定的に与えられているのだ。これでは、一般社会学者が薄い記述を選んでしまうのもあながち批判出来ないように思うが、どうだろうか? (特に日本の一般的なEM論文であれば、こうした文脈で具体的な分析を断片的に紹介したりするのだが、しばしば、読者はその理論的説明と具体的分析の落差に当惑することになるわけだ。)


私見だが、EM者、あるいは概念分析を語る者は、こうした構造自体を自らの議論の中に反省的に取り込む(努力をする)必要があると思う。

シャロック&ボタン、そしてウィンチの言っていることは正しい。だが、彼らの論考を参照しつつ、「概念分析を行います」と言うだけであれば、それは何を具体的にすることなのかまったく説明したことにはならないということ、さらには、自分が具体的に行うことを自分が理解していることの保証にもならないことをはっきり自覚しておく必要がある。さもないと、概念分析は一般社会学の中に霧消してしまうことになりかねない。日常言語学派哲学がやがて体系的な分析哲学、言語行為論へと「発展」していった(そして消滅した)ことを忘れてはならないと個人的には強く思う。

悪貨は良貨を駆逐する。思考の厳密性よりも「発展」を望む者は、たくさんいる。




・・・というようなことを考えつつ、拙稿は書いたわけです。(きっかけをくれたOKZWさんには感謝してます。)