インタビューデータ

一般的に、社会学者はインタビューデータをその背後にある現実を読み取るための資料として、扱おうとする。

この態度において、インタビューデータは必ずある欠損を抱えたものとして現れる。所詮語られた言葉は言葉なのだ、現実は捉えきれるはずはない、と。社会学者は、基本的に、様々な情報を外挿して、この欠損、つまり言葉と現実の落差を埋め、言葉と現実の代理関係を構築する努力をする者のことと言えるだろう。

だから、社会学者の能力はどこか物語作家の能力に似ている。様々な素材を集め、壮大な物語を語ってみせる能力――。社会学者の本を読んでいると、「口からでまかせをよくもまあ延々と書けるな。社会学者やめて小説家として生きていけばいいのに」と思うことがありません? (でも、それでこそ社会学者なんだから、こちらの不満が間違っているんでしょうね(?)。)



なぜインタビューをその裏にある現実を映す鏡として扱う必要があるのか? インタビューが理解可能となっているのは、インタビューが隠している現実とやらのせいなのか? なぜ、インタビューデータをそれ自体が一つの秩序を湛えた現象としてみることができないのか?

「Ceci n'est pas une pipe」と概念分析はまだまだ言い続ける必要があるんでしょうね。




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「90年代後半に比べたら今は夢のよう」ですか?
80年代末、まだEMが現象学的社会学の1バージョンのように思われていた時代に、某研究会で解釈主義批判を語って、たっぷり1時間袋だたきにされた経験を持つ者からすると、90年代後半はすでに夢のようでしたよ。恵まれてます。