あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください4 appendix

今から5年前「EMCA研ニュースレター」に、リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』をめぐるシンポの後、以下のような文章を寄稿した。「あなたの研究に一番影響を与えた理論家の名前を教えてください1 3」を読んだ上で、読んで欲しい。
(ネット検索しても出てこないので読めないという方がいらっしゃったので(大雑把にはすでに公開しているんですが)、ここで公開します。(著作権上?)問題がある場合、お知らせ下さい。)


シンポジウムを振り返って


私は報告者に向けて2つの疑問を述べた。ごく簡単に振り返ってみたい。


1;リンチのシュッツ批判あるいはプロトEMの理解について

リンチは非懐疑主義的なウィトゲンシュタイニアンとして有名であり、その立場表明は第5章でなされているが、私が気になったのはその前段、第4章で(本書のキーワードとしてとりわけ有名な)<プロトEM vs.ポスト分析的EM>という概念ペアを導入し、そして前者の典型としてシュッツを批判する際の、リンチのデリダへの依拠である。


本書でリンチがデリダから何らかのインスピレーションを受けていることは疑い得ない。そのインスピレーションの核は恐らく、第1章末(p56)に現れる、(既存研究/社会学に対するEMの)「寄生」という言葉に表れている(ただし、この言葉は生物学を意識してのものでもあろうが)。そこでの記述は漠然としているが、これは本書末、結論で「回顧的な関係」として詳細に反復されている(p361)。そこでのリンチの議論を言い直せば;デリダ脱構築が既存の言説(形而上学)に寄生しているように、「ポスト分析的EM」も既存の分析に「寄生」している。EMの既存分析に対する「寄生」のあり方を詳述するのが本書なのだ――というところだろうか。本書の理解に、リンチによるデリダの受容、利用を考えることは必須である。


恐らく、多くのEM研究者にとっては、EMとデリダの関係は論じるに値しないものなのだとは思う。シャロックとアンダーソンは、すでに1991年にシュッツ論/現象学論を展開し、シュッツの学説史的位置づけ、および現象学の再記述方策を論じている(Sharrock.W.& B.Anderson.'Epistemotogy:Professional Scepticism' in Button,G(ed.)Ethonomethodology and the Human Sciences,Cambridge)。それは初期デリダが展開した現象学脱構築とは重なるところがまったくない。そして、このシャロックらの議論から十分予想できることだが、クルターは後の1996年、デリダをして「理論的刺激を与えるだけのものでしかない」と切り捨てている(Coulter,J.'Reply:A Logic for "Context"',Journal of Pragmatics,25))。


しかし、だからこそ、ここには本書におけるリンチの議論の特異性がある。リンチには、(本書出版年である)1993年の時点で、シャロックらのシュッツ論/現象学論を知った上でなお、デリダを利用してシュッツ/現象学に関して、そしてEMに関して語るべきことがあったのである。そして、それは本書において決して些末なことではなく、その核心に属している。一体それは何か? EMが「寄生的」であるとはどういうことか? リンチはどのようにシュッツを批判し、プロトEMを位置づけているのか?


本書を「読む」というのであれば、デリダを経由したこうした問題の考察は避けて通れないように思われる。


2;リンチの会話分析CA批判について

本書第6章で展開されるCA批判は非常に見通しが悪い。ただ、一点明瞭なのは、リンチがそこで、CAの科学としての身分を論ずるサックスの議論を修正することに拘っていることである。リンチのサックス批判は同章末p295の中段の記述に集約されるが、その要点は、ライルが『ジレンマ』の中で言う「ペンチを使うことは指に依存している(誰も指が能率が悪いからと言ってそれをペンチに置き換えようとは言わない)」という例え話を利用して言えば、(誰かがペンチを使う場面を取り上げて)指の使い方を‘ペンチの'使用から独立に説明する観察科学が成り立ちうると考えるならそれは間違いだということだろうと思う。指の使い方の説明はペンチを使う場面でペンチを使う能力を持った者にとってはペンチを使う指の使い方の説明となるのであって、そうした場面、そうした能力から独立して、指の使い方の説明があるのではない(だが、サックスはそう考えた)。リンチは、サックスのこの勘違いがCAにおいては修正されておらず、CAは観察科学として一個の独立した学問体系を構築しうるという信憑が体系的に維持されていると考えているように思われる。


この論点は第7章で論じられる「個性原理」、「固有妥当性要請」に繋がる論点であり、それゆえリンチのCA批判は、CAは個性原理の把握が甘い、あるいは固有妥当性要請に応えていない、と言い直してもよい。科学分野に「核となる活動/本質」など存在しないと力強く論ずる第7章の中で、固有妥当性要請に関して、リンチはp348中段で(ガーフィンケル自身の理解をも超えて)重要な指摘をしている。固有妥当性要請は「ある科学分野の核となる知識へとその科学に精通することで接近せよ」などということではなく、「EM研究者は(論文の)読み手との知識落差がある状況に適切に対処せよ」ということなのだ、と。科学的活動のどこでどのように日常的な実践が運用されているのかを示すには、その科学的活動に最低限入り込まねばならないが、同時にそこで生じたことの理解を読み手に共有してもらわねばならない。EM研究者は論文の書き手として、現象領域に読者を入り込ませる、練習課題を構築する苦労をしろ、というのがリンチが理解する固有妥当性要請なのである。確かに、この固有妥当性要求の主張は、CAのオーソドキシーから外れている。CAは、基本的に読み手の直観的理解を論文作成の資源として利用するからである。CAにおけるトランスクリプトの意義は、論文の書き手と読み手が共通して利用できる資源の呈示という点にある(トランスクリプトによって書き手も読み手も反復的にデータを検討できるとは、CAが延々と繰り返し主張してきたことだろう)。


以上のようにリンチの議論を整理すると、CAに対する疑問が具体的に見えてくる。最近「科学活動、専門活動のCA」と名付けうる研究は多い(ように思われる)が、固有妥当性要請という観点から見ると、疑問に思うことがある。それは、そうした研究がその対象フィールドとして、「素人」がいるフィールドを選ぶ傾向があるように思われることだ。例えば典型的には「医者が患者を診察する」といった場面。そこには患者という素人(非専門家)がいる。だが、「医者が患者を診察する」場面を記述する場合、固有妥当性要請を誰よりもまず先に考えているのは、実は、そのフィールドにいる「医者」ではないか? テキストの読み手(聞き手)との知識落差を考えて、自らのテキスト(発話)を練習問題、個別指導として、構築しようとするのは、素人(患者)に直面している専門家(医者)であろう。この状況で、日常的方法の説明は可能だと言われても、もうすでに専門家が知識落差を解消して、すべてを日常性に落とし込んでいるのだから、それは当然だろうという気もする。リンチは「実験室に行こう」(p365)と述べているが、実験室と診察室はそのポテンシャルにおいて大分違うと思う。


無論、これは診察室のCAがナンセンスだということではない。固有妥当性要請は決してEM研究者独自のものではないと考えることがここでは重要だ。固有妥当性要請は様々な活動の中でトピックとなり、またリソースともなる。そうした活動を記述するEM研究があってもよい。しかし、それはリンチが本書で求めていることとは異なるだろうということだ。CAはこうしたことをどれほど意識的に処理しているのだろうか?


もう少し具体的に言おう。例えば、固有妥当性要請に応えようとするとき、トランスクリプトはどのような意味を持つのか? 「練習課題、個別指導の一部として」という回答が予想されるが、このようなトランスクリプト概念の変化は、論文内でどのようなトランスクリプトの使用法の変化として現れるのか? CAはかつて延々とトランスクリプトの意義について語ったはずだ。それはCAの重要なポリシーの一部をなしていたはずだ。科学者/専門家の活動を研究すると言うとき、トランスクリプトはいかなるポリシーの下に現れるのか?


恐らく、こうした疑問はCAのみが回答義務を負うものではない。EMにおいてトランスクリプトは重要な記述デバイスとなっている。自分が単純に昔通りのCA的作法の延長でトランスクリプトを掲げているというのなら、過去の遺産である議論を丸暗記しておけばよい。だが、リンチの固有妥当性要請に応えようというのなら、そうはいかない。リンチがCAに向ける問題提起は、CAに限らず、現代のあらゆるEM研究者が考えるべき問題であるように思われる。


以上述べた2つの疑問は、多くのEM/CA研究者に一方で非経験的、他方で無用に論争的と忌避されるかもしれない。しかし、リンチ自身が本書を「もっぱら論争的でプログラム的なもの」(p360)と規定しているのだ。こうした疑問こそ本書におけるリンチの意に適ったものであると私は思う。