社会科学者
社会科学者は提言をする――「あーするべきだ、こーするべきだ」。
これをしないと社会科学者と‘基本的には’認めてもらえない。
この提言をする能力は、無論立派な能力である。
様々な提言の歴史を踏まえ、自分をそこにどのように位置づけるかを測定することなしには提言などできないだろう。
ただ、学者は提言の結果に責任を持たない。責任を持つのは政治家と、これまた‘基本的には’決まっている。
まあ、こういう分業がこの世の中にはあるわけだ。
これはこれでよい、と言うか、仕方がない。
しかし、社会科学者にはこの無責任さが染みこんでおり、これは何とかならないのかと思う時が多々ある。
自分が責任を取りようがないことに関しては「あーするべきだ、こーするべきだ」と滔々と語るその人間が、(例えば学内の会議などで)いざ責任を取ることが出来る事柄になると、日頃のリベラル改革主義の主張はどこへやら、俄然頑迷固陋な保守主義者として旧態依然とした抑圧的決定を平然と行う――ありがちである。
なんとかしてくれと思うが、これぞ「カテゴリー拘束活動」と言う必要もある。
勤務先報道機関のポリシーに応じて、左でも右でも議論を展開できる編集者も同じだろうが、これが能力でなくて何であろうか!
まさにこうしたカテゴリー拘束活動の能力こそ、「社会科学者」の能力の核心なのだろうと思うのだが、社会科学者のあなた、どう思うか?