EMは消滅してしまったのか?
ガーフィンケルの『EM研究』出版から半世紀経ったわけだが、ここ数年、EM大御所がEMの現状に関して恐ろしく悲観的な論考を発表している。
今年、シャロックの退官記念論文集に寄せたリンチの論考も悲観的だった。EMにとってよかれと思って論争をしようとしているのに、現在のEM業界では、内部抗争を引き起こすものであるかのように扱われてしまう――というリンチの暗澹たる気持ちがそこには書かれており、読むのがつらかった。
しかし、何よりも衝撃的だったのは、シャロックが退官したその年(一昨年2017年)にアンダーソンとの連名で発表した、「EMは消滅してしまったのか?Has ethnomethodology run its course?」というタイトルを持った論考だった。
ある程度年をとったら金太郎アメのような、あるいは「昔の名前で出ています」のような、似たような論文しか書かない(書けない)研究者ばかりという日本の知的風土に生きている人間としては、定年退官しようという人間がまったく守りに入らず、最後まで攻めに攻める超攻撃的な内容にすがすがしさすら感じるラディカルな論考なのだが、一言で言うと、現在のEMをなで切りである*。「EM的に触発されたエスノグラフィethnomethodologically informed ethnography」とかぬかして、がらくたみたいな論文書いてんじゃねーよ・・・って具合に。いや、本当に。
*CAはそもそも相手にされていない。注に以下のようにある。「我々の問題はガーフィンケルの研究により具体化された探求の様式としてのEMである。我々はこの課題にCAを含めない。CAがEMにその起源を持つことは知っているが、CAは長く独自の道を歩んできた」。日本では通用している「専門はEM/CAです」なんて自己紹介は通用しないということを、日本の「EM/CA」研究者は思い知るべきだろう。
内容は難解極まるので簡単な要約を許さないが、シャロックらの提言の核心は「EM的態度をEMのワークそれ自体に差し向けろ」というものだ。日本のEM/CAの専門家(とやら)は、このシャロックが退官に際して残した論考を読みこなして、この提言を受けとめ、自らその意志を継ぐ覚悟があるだろうか? ないだろうな。
個人的には必読と思うので、宣伝として以下に冒頭(プロローグ)の抄訳を書いておく。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
プロローグ
この論文は、書く気をなくさせる論文だった。主題はEMにおける現在の探求の欠陥である。我々は好き好んでそう言いたいわけでもないし、好き好んで言わねばならないと感じているわけでもない。しかし、我々は、EMは沈滞し、分析的に、刺激も興奮も失っていると感じている。………我々が望んでいるのは、EMのエネルギーを再方向付けし、そのワークを再活性化する方法に関するEM内の論争を促すことだ。その論争を通じて、我々は、我々がここで明らかにする事実に説得されることはない者であっても、我々の提案に価値を見出してくれることを願っている。
最初に、最重要なことだが、我々は、EMが根本的に、修復不能に欠陥を抱えているなどと言いたいわけではない。今日出版される多数の業績を見ると、EMは道に迷っているように見えるのだ。かつてその駆動力だったもの、その使命だったもの、その存在理由だったものは、我々が記述する特徴のアマルガム、複合体によって、部分的に取って代わられてしまった。我々が今目にしているのは、我々が最初にEMに出会った時発見したEMではないし、そして間違いなく、我々がEMがそうなるであろうと想像していたEMではない。
第2に、量に注意する必要がある。我々は、圧倒的多数の発行される研究の量について語っているのであって、個々すべての研究について語るわけではない。無論、優れた研究もある。だが、それは発見するのが極めて困難だ。発行される量からして、EMは疑いなくブームだ。問題は、ますます増殖している、ありきたりで、平凡で、退屈なものに対する、洞察に富み、観察鋭く、特徴あるものの比率であって、我々を悩ませるのはまさにこの比率の低下なのだ。もし我々がグレシャムの法則が学術研究には当てはまらないと考えるなら、我々はバカ者だろう。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/