優生学という問題

まだ講義ノートを書いている。

これだけ頭を絞ってもまだうまく説明を書けないということは、どこか無理があるのだろう。経験的にも、強引に理屈あわせをしていい結果が出たためしがない。強引に作った理屈を聞かされる学生も迷惑する。しばらく時間をおくことにする。どうせ今悩んでいる部分の講義は来年度の終わり頃だし。


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しかし、こうして考えてみて思うのは、つくづく優生学という科学は不思議なオブジェクトだということだ。なんともつかみ所がない。すでに論文二本書き、そのために論文著作あわせて500冊/本(素朴な方法論を使って書けば軽く単著が書ける分量だと思う)ほどを読んでいるが、いまだによく分からないことが多い。

「Grammar of Reproduction」における課題は、フーコーの『知の考古学』での問題設定で言えば、産児調節運動の統一性unitéがいかに構成されていたのかという問題であり、ハッキングの問題設定で言えば、深層構造としての優生学がいかに管理、運用されていたのかという問題だったわけだが、ここから副次的にどうしても考えざるを得なかった課題は、民主制democracyと科学のあり方だ。すべての人々が判断の主体となることを求められる時代に専門性において自らを定義する科学はどのように機能するのか?科学が使用される場面、対象、目的に応じて管理運用される科学の基準、そしてそのために必要となる管理運用のテクノロジー――こういったことをとりわけ考えた。

しかし、そこで提出した知見は、特に優生学でなければならないという類のものではない。例えば、沈黙を利用した統一性管理、深層構造管理のテクノロジーは、何らかの科学を背景に持つ民主的な社会運動に共通して言えることだと思う。リンチはハッキングの深層構造を批判して、医師が患者の意見を退けるのは精神医学的知識によってではなく、ごくごく日常的な知識、規範によっていると述べているが、これは次のような事態をも含意しているように思われる。つまり、科学(深層構造としての)を呼び出し運用するテクノロジーそれ自体はどんな科学においても使用できる、ごく日常的でありふれたものだということ。恐らく、リンチからすれば、科学を運用するテクノロジーという点において、優生学は何ら特権的なものではないということになるのではないだろうか。ある科学がこのテクノロジーによって我々の判断の中に滑り込んでゆき、やがては元来それが科学であったということも忘れられてゆく――こんなことは優生学に限らず多くの科学において起こっていることだろう。確かに。

しかし、優生学の固有性はこれでは分からない。そして、ハッキングがこだわっているのはこのような固有性であるように思われる。ハッキングは精神医学の固有性に明らかにこだわっている。優生学の固有性、つまり優生学の統一性unitéとは何か?今の私に欠けているのはこの知見なのだと思う。講義で優生学の話をする、そしてその特異性を話す。ところが、テキストにおける優生学の取り扱いは科学一般の取り扱いと変わるところがない。このギャップを超えられない、だから説明がうまく組み立てられないのだろう。

だが、優生学の統一性ってどうやってアプローチすればいいんだろう?産児調節運動の統一性などと比べると、格段に難しい。そもそも調査対象が格段に広がるように思われる。いずれにせよ、この問題は歴史外在的に考えるべきではない。とりあえず、優生学が時代の深層構造をなしていた戦間期に立ち返って考えるしかない。


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さらに考える。

優生学の統一性は単数なのか?それとも、複数なのか?そして、それはいかなる様相において存在するのか?どう考えるべきなのだろう?

恐らく多数多様の優生学のゲームがあると考えるべきなのだろう。「単数形のザ・優生学のゲーム」なるものを想定するのは間違いだ。そして、この流れで言えば、優生学のとらえどころのなさは、そのゲームが非常に拡散しているからと言えるかも知れない。いつでもどこでも誰にでもできるゲーム!恐らく産児調節運動はその数あるゲームの一つなのだろう。

19世紀末に誕生し20世紀に入ると急速に普及した優生学はまさに、Bio Pouvoirの出現を記すメルクマールだろうが、優生学/Bio Pouvoirはまさに多数多様のゲームであるという点において、時代の深層構造となったのであって、決してその逆ではない。とすれば、なすべきは安易な一般化(優生学とはこういうものだ)に走らず、個々のゲームをつぶさに見てゆくことから始めるしかないし、優生学について語るとはそれ以外にあり得ないのではないか?

産児調節運動における優生学のゲーム、あるいは産児調節運動という優生学のゲームについては、すでに一定の理解を得た。となれば、やはり、戦間期優生学、というよりも日本の優生学を語るときに忘れてはならないfigureであり、日本最強の優生学ゲーマー、永井潜について考えねばならない。


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結局、なんかぐるぐる巡って落ちたところはいたってsimpleなところだな。所詮、私はこうやってうだうだ考えて少しずつ前に進んでいくしかない、ってことか。