EMのポリシー

久しぶりにEMのポリシーめいた文章を書いている。書いていて断片的に思ったこと。


久しぶりに、EMのポリシーを書いてみたら、自分が妙にきれいにEMと慣習的社会学(FA)との差異を示せてしまうのに我ながら驚いた。EMと社会学の観点の違いをいくらでもざらざら書けてしまう。一般的にはある学問スタンスを他のそれからきれいに区別できればこれほど喜ばしいことはないのだろうが、こと話がEMとなるとそうはいかない。なんかEMという学問が社会学から明確に区別されて自存するかのような自分の書きぶりは、自分で書いていて半信半疑になってしまう。

EMって本質的にFAの寄生虫だろうに。この寄生性こそEMの核心だろうに。論理的に美しくポリシー説明できるなんておかしいよ。これじゃ通常科学だよ――という認識が私にはある。一体この寄生虫感覚はどうポリシーとして書けばいいのだろうと考えてみたが、コンパクトには書けないものだ。

寺田寅彦は妙に論理的にまとまっている論文をかつて「しん粉細工のようだ」と揶揄したが、その気持ちが最近とりわけよく分かる。「妙に美しすぎる学問は信用できない。現実はそんなに美しくはできていない」ということだろう。


EMポリシーにおいては、もっと行為者の指向性への準拠は強調されるべきだ。あるいは、活動に対する内在も強調されるべきだ。

どうも、一部にはこのような強調が主観主義あるいは自然主義への退行を含意することを危惧して、妙に論理的観点を前面化する向きもあるが、これは論理構造のアプリオリ性を強調しすぎる嫌いがある。自分が書いたものもそうなってしまったのだが、これはこれでミスリーディングだ。現象においては様々なオブジェクトのすべてが論理的に絡まり合っているという認識はEMの基礎認識としてよく語られるが正確ではない。ブリコラージュ式に多種多様なオブジェクトが組み上げられるその中でそれらオブジェクト間の論理的結合も組み上げられると考えねばならない。EMが語る論理はそういうものだ。論理的関係の探求というのはEMの定式として間違いではないが、下手をすると構造主義的発想に接近してしまう。

しかも、行為者への指向性、活動に対する内在を無視すると、具体的な分析を展開できない。自分で考えることができない。「その場にいる人間は何に指向性を向けているか?」を考えることはEMの基本だろう。EMは学説史的に明らかにシュッツの延長にあるが、具体的分析を行う際にはこの過程を反復しなければならない、いわば系統発生を個体発生において反復しなければならないような気がする。シュッツやゴフマンに精通していること、そしてその上でその種の分析からの逸脱としてEMはあるような気がする。