「社会」

社会学は不思議な学問だ。言うまでもなく、その名の通り、社会学は「社会」に関わるすべてを扱うことになっている。しかし、不思議なことに、社会学においてはいつも「社会」とはまず何よりも謎とされているのである。社会学とはこの「謎」に対してその学知をもって回答する学問である。多種多様な文献を読み込み、理論的装置を駆使して、相手に対して「オマエは『社会』を知らないのだ。オレこそが『社会』を知っている」と語る――この他者の無知を笑い、自らを誇る語り口こそ社会学の定番の語り口である。思えば、社会学の歴史とはこのような語り口の間で展開される論争の歴史だった。社会学とは無数の理論的主張が「社会」をめぐってお互いに覇権を競い合うアリーナである。ある者は建築学的にこれを語り、ある者は生物学的にこれを語り、ある者は機械論的にこれを語り、ある者は記号論的にこれを語り、そして新たな語りが生まれては消えてゆく・・・。ただ、いつまでも「社会」は謎であることに変わりはない。

恐らく、このような社会学においては、普通に日常生活を送る人々は無知の極みなのだろう。彼らは当然だが文献も読んでおらず、理論的装置を(社会学者のようには)駆使することもできない。彼らは「社会」のことなど何も知ってはいない、あるいはその歪んだ映像を見ているに過ぎないということだ。社会学は無知な彼らに「社会」とは何か、その真実を語ってやらねばならない。そして、自らの理論的ビジョンによって、そのビジョンとは別個に理解されている何事かの新たな解釈を提示してみせねばならない。ああ、崇高な社会学の使命!

しかし、人々は社会学の助けなどなくとも、色々な物事に意味を見いだし、お互いに理解し合い、生活する。このようなおよそ否定しがたい事実を何と呼べばいいのか?‘人々の用いる自然な言葉の使い方に従えば’、このような事実こそ「社会的」と呼ばれるべきなのではないのか?普通に日常生活を生きる人々も「理論」的に語ることもあるだろう(さらに場合によっては社会学のある「理論」を語ることもあるだろう)。だが、そのような「理論」はアドホックでプラグマティックなものであって、学問が語る「理論」とは大幅に違っている。そんな(社会学からしたら)「理論」もどきの言葉を含め、多種多様、雑多な活動こそ、‘人々の用いる自然な言葉の使い方に従えば’「社会的」と呼ばれるべきなのではないか?

確かに、「社会」という言葉は歴史を持っているだろう。しかし、‘いかなる’歴史とて、このような素朴で普通の事実、活動の積み重ねの中から、そのような積み重ねとして、可能になっているのではないか?

人々の活動を懐疑し、介入し、矯正しようとする社会学を否定するつもりはない。このような活動自体、我々が日々経験する事実なのだから。多くの人が他の人に向かって色々な仕方で、こうするべきだ、ああするべきだと語っている(江原啓介だって語っている)。それは何も学者(社会学者)だけがしていることではない。しかし、だからこそ、そういう社会学とはまったく別の――非対称的な形で代替的な――社会学の可能性が見えるのだ。人々が物事の意味を見いだし、理解し合い、生活してゆく、その方法に定位し、その方法を解明することを主眼とする研究が、それである。少なくとも私は、誰が何と言おうと、そのような研究は「社会的なもの」に関する研究、すなわち社会学だと思っている。私などからしたら、他者の無知をあげつらい、他者を矯正しようとする、その意味で方法論的‘唯我独尊’主義とも言いうる態度を取る学問が、「‘社会’学」を名乗っている方がよっぽど不思議というものである。