「実践」ということば

よく学生に聞かれ答えに窮する質問;「実践」って何ですか?

一応「自然言語の記述を問う水準において一切の人間活動に言及することば」などと答えるが、しっくりしない。というか、肝心のことが説明されていない。この説明しきれない感じ、これは何だろう。

記述が実践を‘可能化する’と一応は言える。EMはこの記述を記述しようとしているというのは、EMの説明としてありだろう。

しかし、この説明があまりに前面化されると、いろいろと不都合を起こす。経験を支える言語的基盤の解明というのは言い古されている。ここで、下手に記述と実践の循環性(相互決定性)などを持ち出しても、それもまた言い古されている(フーコーの誤読も大概この手の誤読だろう)。新しいことを言っているつもりで言い古されたことを反復していることがどれほど思想の歴史において多いことか!言い古されていることと似ているけど、違うことを語っているのだなどという主張は当然ありえない。語り方が言い古されたものであるなら、語っている思想が言い古されているのだ。

語るべきは「記述と実践は概念的に不可分である」ということだろうとは思う。ところが、これはつくづく説明しづらい。EM者が書く文章の中にもこれを循環に置き換えて理解している(としか思えない)ものが多数あるが、これは(上の事情からして)決定的にミスリーディングだ。概念的循環を語ることは概念的純粋性を守ろうという思考習慣の最後の砦であって、乗り越えねばならないのはこの思考習慣であるということを肝に銘ずる必要がある。

我々は概念的不純性を擁護しなければならない。しかし、どうやって?恐らく、それは記述を記述する際その記述の中で記述として「示す」しかないものなのだろうと思う。EMにおいて、あるいはフーコーにおいても、決定的に重要なのは文体(書き方)である。我々はその文体において記述と実践が概念的に不可分であることを示す記述を実践しなければならない。

EMの困難も可能性も、そして恐らくフーコーの困難も可能性も、この点に集約されるような気がしてしょうがない。