科学的言説の分析について

労多くして益少なし。これに尽きる。

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専門分野内での常識的推論を駆使できないと、専門家が何をしているかは到底理解できない。そこで、その分野の専門知識を大量に仕入れねばならない。まずこれがとてつもなく大変。
恐らく、今回の論文で永井のテクストの解説部分なんか読む読者は、「まとめただけだろ」「要約しただけね」とか思うだろうが、全然作業の実態は違う。永井のテクストは誰の業績とも書かずに参考文献も示さずに、永井が読んだ研究業績をまとめながら羅列してゆくのがほとんど。それをこれは誰の何時の業績のまとめだと読み込んでいるのは、そしてそれを分かりやすくまとめているのは書き手(私!)なのだ。例えば、性別の遺伝学的決定のメカニズムは20世紀初頭徐々に明らかになってゆくが、永井がどの辺りまでフォローしているか、遺伝学的展開を背景に査定して、この業績までは永井はフォローしていると見なしてよいと見極め、その水準で永井の議論をまとめているのは書き手(私!)なのだ。
そして、永井は生物学、遺伝学分野と同時に、哲学分野でも似たようなことをしている。しかも哲学は永井の専門ではないからかなり変な参照の仕方をしている。当時の日本の哲学さらには世界の哲学の水準を押さえた上で、これはどのようなことを意味しているはずなのか、参照の仕方がこれは正しい、これは恣意的と見極め、その上で永井の考えをまとめているのもすべてこれまた書き手(私!)なのだ。
恐らく論文の読み手は、論文内の永井の議論のまとめをよんで、そんな苦労があるとは誰も思わないだろう。いったいどれほど哲学関連の本を読む必要があったか、いったいどれほど遺伝学関連の本を読む必要があったかなんて考えもしないだろう。一度永井のオリジナルのテクストを読んでみろと言いたい。
やってられない。

2
しかも、にも関わらず、論文にアウトプットされることと言えば、社会学者にはおよそ馴染み深いとは言えない哲学論議、生物学遺伝学論議が延々と続くこととなる。以前書いた産児調節運動関連の話の方がまだ社会学者の取っつきやすい話題を展開できたが、今回はそんなのまるでなし。絶対、「こういうふうにまとめて、だから何?」「永井って、こんなふうに研究する価値あるの?」「優生学の批判になってないじゃん、これ」「で、これって何が面白いの?」ってほとんどの読み手)の社会学者が思うに決まってる。
やってられない。

3
一般人の言説は色々な意味で穴が多くて、研究者が突っ込む部分がたくさんあるが、専門科学者となるとそんな穴はまず簡単には発見できない。専門科学者は当然だが優秀になればなるほどすべてを語ってしまう。自分の議論の欠陥も知っているから、それを巧妙に覆い隠しもしてしまう。認識論的前提から推論の展開方法まで全部語って完璧な一個の言説空間を自ら作り上げてしまう。
その言説空間を単純に再現するだけでも上で言ったように一苦労なのに、真の問題は‘それをした上で’あるいは‘それをしつつ’いわばその言説空間の体系的な歪みを発見することなんだから、とてつもない作業量になる。繰り返しテキスト読んで内容を理解しつつ、これはと思った言説的特徴を見つけるとそれをヒントに再度複数のテキスト読み返し――なんて作業を何度も何度もやる。そしてそういう作業の中で、ある歪みが体系的な一つの語り方として存在しており、それが様々なパーツを結びつけ、その言説空間の存続に決定的に重要だということを見極めてゆく。
恐らく、こんなことを書き手がしているなんてことも、論文の読み手は気づかないだろう。「単に変な語り口があるってことを見つけて、どうだっての?」「これって何か意味あるの?」で終わりだろう。
やってられない。

4
以上からして、科学的言説の分析はそのアウトプットがとんでもない量になる。論文の読み手は(仮に社会学者としても)科学、哲学のの素人。その素人に分かる水準で専門家の実践を書こうとしたらどういうことになるか。膨大な量を書く羽目になるのは目に見えている。
しかも、言説的特徴を示すためには実際に現物を引用して示さないことには説得力に欠ける。これまたアウトプットの量を増やす要因となる。
しかも世の中、くだらない論文が氾濫してるから、これをたたきつぶす論点も盛り込まねばならない。
ところが、読み手の方はそんな努力があるとも知らないで、「まとめ部分なんか、もっと短く書けるだろうに」「もっと細部をはっしょって言いたい図式をびしっと書けよ」「これだけ書いて出てくる説明図式がこの程度かよ」とか思うに決まっている。短くしたら科学と哲学の専門書に限りなく近くなるぞ、それでオマエ理解できるのか?、引用を削ってどうやって説得力を出すんだ?、事実の集積が重要なのであって説明図式なんて実は(ほとんど)どうだっていいんだ、細部こそ重要ということが分からず、図式確認して喜ぶなんてバカもいいとこ!、と言いたいが、それは独り言にしかならないだろう。
つくづくやってられない。
(だけど、フーコーやハッキングの小論が‘もう一つ’になる理由がよく分かった。.)

5
言説分析ってそもそもコス・パフォ悪いけど、科学的言説の分析はコス・パフォ悪すぎる。もうやりたくない。