N氏

N氏と電話で現在執筆中の論文について最終調整する。


形式に関しては(枚数(分量)に関して)「一行でも減らしてもらえると・・・」とN氏。「鋭意努力します。でも、大幅には減らせないと思います。申し訳ありません」と私。他に言葉がない。すみません。


内容に関しては、「結論が上品」とのご指摘。優生学を乗り越えるのは難しい、今の(一般的な)社会学の水準じゃ無理ということをもっとはっきり言ってもいいのではないか、ということらしい(?)。「う〜〜〜ん、それ、意図的にはっきり言わないようにしてることだから」と私。

確かに、言う気になれば、優生学に対して環境の力を対立させてみせるなんて、それ自体永井が作り出した言説空間内で可能なものだとか、永井を政治的だ、優生学エセ科学だとか叩いている、その言説が永井の言説と同じ技法に支えられているんだとか、最後に明言することは出来る。そして、実際内心ではそう思っている。というか、社会学文献に対する罵詈雑言が執筆動機になっていることは間違いがない。

でも、それで終わるのは、個人的な趣味として避けたい。というか、なるべくそういうことは表面化させたくない。私が言うと、めちゃくちゃ攻撃的でエグイ感じになのではないかと思うので。人徳者だったらそれを言ってもいいと思うんだけど、そうじゃない人間はそれを言っちゃまずいんじゃないか(少なくともエクリチュールとして残しちゃいけないんじゃないか)という気がする。私には人徳はない(これは間違いがない)。

狙ったのは、『偶然を飼いならす』のハッキングのライン。ハッキングは文章中で「リベラリストの発想の根は集団を改良できるってことで、これはゴルトンと同じ」(超概略)みたいなことを言っているが、読後感はそういう生々しい血なまぐさい攻撃があったことが前面化しない、エグミが残らない(と思う)――これが理想。(今回、『偶然を飼いならす』は、文章をどう書くかということに関して非常に参考になった。)

・・・というようなことをN氏に言うと、「なるほどぉ、そうかぁ。でも、あの論文、社会学者攻撃してるの、すごくよく分かりますけどね。」とN氏。buh・・・すみません、修行が足りません。(N氏はこちらが気を抜いた瞬間に、本質突くような鋭いことを何気でさらっと言うのが困りもの。)