救護室にて

この大学学部は入り口にある事務所を右手に見て、奥に進み、「一般学生立ち入り禁止」の張り紙がしてあるドアを2枚抜けると、ミーティングなどに使用できる机、イスを置いた、20人ほどが入れるだろう小さなホールに出る。このホールの右手にはいくつかの小さな部屋(印刷室、救護室など)が並んでおり、奥にはトイレ、会議室、左手には事務室がある。このホールは(建物自体がやや古いせいで、そして省エネのせいで)やや薄暗いが、ほとんど誰も使用しておらず、また飲み物の自動販売機も置いてあるので、私は講義開始前によくここで飲み物を飲みながら、一休みすることにしている。

冷たい雨が降っていたその日も、私は講義ノートをぱらぱら見ながらを温かい飲み物を飲んでいた。すると、視界の端を、私の後方から男が2人動き、救護室のドアを開け中に入ってゆくのが見えた。特別気にも留めなかったので、それがどのような人間かは全然分からない。しかし、数分すると、どこからか、年配の男の怒り声が聞こえてきて、どうやらそれがその救護室からだと気づいた。

最初の内は、どうやら説教でもしているようだという感じだった。だが、やがて声のボリュ−ムが徐々に上がってゆく。もはや単なる説教のレベルではない。内容は聞き取れないが、クレーマーが大学職員あるいは教員に言いがかりでも付けているのかという感じである。しかし相手が言い返さないのは不思議である。一人の男が延々と怒鳴っている。その状態が数分続く内に、男の声のボリュームはさらに上がってゆく。もう、怒号、絶叫である。その上、机を叩く猛烈な音、イスを蹴飛ばしてイスが転がる音が響いてくる。とてつもない音ととてつもない怒鳴り声。あまりに興奮しているせいだろう、声が頻繁に裏返る。言葉も言葉にならない。断片的に単語が聞こえる。

「オレはなぁ!!、上からぁ・・・・・・・言われてんだよぉぉ!!!」
(ドカッ!!!ガッ、シャーン!!!) 
「お前はぁ!!、オレをぉ・・・・・・・する気なのかよぉぉ!!!」
(ガァーン!!!バァーン!!!)

これが延々と続く。

私は人間がこのような声を出すのをいまだ聞いたことがない。というより、人間が他の人間に対してこのような声を出せるのかとすら思う。人間の声とも思えない絶叫と怒号。無論、男同士が喧嘩すればそれなりの大声は出すが、そういう声とも違う。喧嘩では一方的な怒号が延々と続くなどということはない。喧嘩では相手が言い返す。場合によっては、延々と続く前にフィジカルな水準(殴り合い)に移行する。

小さなホール全体にも響くような怒号、大音響なので、ホールを挟んで反対側にある事務室の中にいる人間も気づいているようだ。事務室入り口のドアのガラス越しに、事務員が視線をこちらに送りながら顔を寄せ合っているのが見える。恐らく、これがもし公共の場所でなされていたら、間違いなく周囲の人間が止めに入り、あるいは警察を呼ぶだろう。しかし、顔を寄せ合っている事務員たちに、止めに入る素振りはない。つまり、事務員は何が起こっているか知っているのだ。建物がいくつも整然と建ち並ぶ、長い歴史を持った都内の有名大学の建物の奥、何枚かのドアで外界と隔てられた薄暗い救護室の中で延々と続くパワーハラスメント・・・。

私は講義開始時間となってその場を離れてしまった。しかし、少なくとも私が講義に行くためにその場を離れるまで、およそ10分間、凄まじい一方的な怒号は続いていた。(一体、あの怒号はいつまで続いたのだろう?) 私はその場を離れることができて少しほっとした。私は、救護室に入っていき「理由はともあれ、これは犯罪だ。止めなさい!」と言うことはできず、その場でただその怒号を聞いているしかできなかったから。