西阪仰・高木智世・川島理恵『女性医療の会話分析』

文化書房博文社、2008年

同年出版の西阪単著である『分散する身体』もそうだが、数年前の私のつぶやきhttp://d.hatena.ne.jp/Zephyrus/20060806/1154925010がまるで聞こえたかのように、会話分析ジャーゴンを一切使用しない。それどころか、これまた過去の私のつぶやきhttp://d.hatena.ne.jp/Zephyrus/20070830/1188439902に答えるかのように、実践という言葉すら(「そんなミスリーディングな言葉、そんな手垢にまみれた言葉使ってたまるか」とばかりに)使用せず、代わりに「プラクティス(やり方)」という言葉を使う徹底ぶりである(『分散する身体』の冒頭の話題である‘暗黙知’はやはり数年前にミクシィで延々と議論したことだし、頭の中を見透かされているような気がする)。後者はともかく――私は一般社会学と共有している術語をミスリーディングだからといってEM的研究は排除すべきだなどとは思わないので――、会話分析堕落の最大原因である、過去の会話分析の業績、概念の紹介、解説といった非分析的要素を徹底排除し、いわば純粋にゼロから出発して分析能力のみで勝負してやるという、並々ならぬ自負を感じる。ただ者ではない。

このような筆者たちの指向性は非常に重要な意味を持つと思う。だが、この著作にはどうにも違和感を感じる。一体この違和感は何なのだろうと考えてみたが、どうにもうまく表現できない。この違和感を表現するには、よっぽど突き詰めて考える必要があるようだ。

あえて言えば、それはトランスクリプトの提示の仕方に関連しているように思う。この本を読んでいると感じるのは、トランスクリプトが非常に断片化されて提示されており、そのトランスクリプトだけを見てもちんぷんかんぷんであるということが非常に多いということである。筆者は断片化されたそのトランスクリプトをまず示して、次いで、「ここでなされていることは、よく分からないでしょう、じゃ、これから謎解きをしましょうね」と言うかのように、そのトランスクリプトの分析をして見せてくれるのだが、私はこの記述スタイルに非常にひっかかった。雑な言い方で言えば、「ただでさえ馴染みのない専門的な場面に関する会話をこれだけ断片化されたら、つまりコンテクストを剥奪されたら、分からないに決まってるだろ」、「会話分析においてトランスクリプトはいつからこんな風に謎を提示するためのものになったんだよ?」という感じと言えばいいだろうか。この引っかかりは何なのだろうと――これはこの本にとって重要な意味を持つようにも思えて――自問してみたのだが、「どうも、読者にとって馴染みのない専門的場面での会話を処理する手際がよくないのかなあ?」という程度で、よく分からない。

ちなみに、西阪はp70に「産道の位置」、p74に「恥骨の位置」とかいう図を載せている。西阪は産道(膣)、恥骨の位置を読者が知らない可能性を真面目に考えて、この図を載せたのだろうか? この図は本文(トランスクリプト)を理解するための重要なインストラクションを与えると西阪は考えたのだろうか? 専門的場面での会話の処理如何ということが頭にあったので、この図はとても気になった。(「そんな非生産的なことを考えなくていいんだよ」というツッコミが入るだろうことは十分分かるんですけど、これが私のサガってやつで…。)


*一般読者、一般社会学者、社会学系の一般EM研究者はこの本を読んでどう思うのだろうか?知りたい。