荻野美穂『「家族計画」への道――近代日本の生殖をめぐる政治』

岩波書店、2008年

明治期から1980年代までの生殖(中絶、避妊)の「言説」の歴史を追うというのは個人的関心と重なり、熟読した。

内容的には、前半(4章まで)、産児調節運動をめぐる運動内部の錯綜した事情(内部分裂p052)、後半、優生保護法をめぐる法と(複数の)規範の絡み合い――国家、企業、(家族計画)運動家、民衆の思惑の錯綜――が興味深かった。中でも現在の個人的な関心として気になったのは、戦後の優生保護法誕生とその後の家族計画運動推進に関する記述。ここで荻野は戦後の優生保護法(という理念)がいかに実践されてゆくかを記述しているが、その際、戦前国民優生法制定の主役を担った優生学者、遺伝学者、精神病学者たちがどう関与したのか、何を言っていたのか、古屋芳雄を除いて、まったく紹介していない。戦後の優生保護法を論じる研究は大概、産児調節運動家が復活し彼らと医系の保守派議員が連携し、これを作り上げたという説明に終始しているが、戦前あれほど賑やかだった優生学者たちはこの優生保護法に関してどう関与したのだろうか?それとも関与していなかったのだろうか(沈黙していたのか)?優生保護法の前身たる国民優生法を基本的に産み出した者たちが完全に沈黙してしまうなどちょっと信じられないが、もし沈黙していたのならそれはそれでなぜなのかを調べる必要がある。語っていたとしても、語っていなかったとしても、いずれにせよ彼らが何をしていたのかは興味深いことだ。

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ちなみに、この本で荻野は理論的には難しいことは何も言っていない。荻野はその記述上のポイントを(「独自の姿勢」として)3点上げている(まえがき)。
1;理念的(イデオロギー的)問題としてのみならず、技術的問題として、これを探求する。既存研究は例えば産児調節運動の送り手側の思想、行動に照準しており、具体的な避妊法や運動受容者におけるその利用可能性に照準していない。「一般の人々」(荻野は「大衆」とか「民衆」といった言葉を使わない)が知りたかったのはこの点であるはず。
2;1と関連して、国家、知識人によって「管理の対象とされた側の人々」の利害得失、価値観を示す声を可能な限り拾う。
3;国際的文脈(コンテクスト)を意識する。時系列的に日本の生殖の歴史を整理するが、その際、その動向を理解する範囲で国際状況の参照を行う。
ウェーバー的だなあ、この枠組みの中で‘生の政治’とかフーコー用語使うと社会学業界ではツッコミ入りそうだなあ」とか、また「私の論文は荻野の目からしたら、‘コンテクスト’を無視し、人々の‘実践’を無視した‘イデオロギー’研究と映るんだろうなあ」とか思う。だけど、私の場合、著者の理論的立場なんて、その著者が好きかどうかにほとんど関係ない。荻野の論述は派手さはないが論証のツボが押さえられている。しかも読者を煽るようなところがない(これ重要)。で、落ち着いて読める。荻野さん、ファンです。

(ただ、私の場合、逆に、負けるのが目に見えていながら多数派権力に殴り込みをかける、血湧き肉躍る東映ヤクザ映画みたいな文章も大好きなんですけどね(固有名は省略させて頂きます)。)