某クラス

このクラスは後期開始当初にハイレベルな質問を連続して受けたせいで、まったく気の抜けないものとなってしまった。それなりにハイレベルな知的要求に応えねばならない、しかし、1年がたくさんいるクラスだから、それなりに分かりやすくもしなければならない。自分でもマニアックと自覚しているあの論文をテキストにして、どうしゃべる? 毎週講義ノートの微修正を延々として、ほぼ完全にそれを頭に入れた上で、1時間半ほぼフルにしゃべりっぱなしになった。本当に大変だった。1回講義が終わるとこめかみが痛くなるほど、頭をフル回転させた講義だった。はっきり言って、学会発表、研究会発表なんかよりよっぽど頭を全開で使った。

恐らく、こんな講義をされる多くの学生はたまったものではなかっただろう。だが、驚かされたのは何人かの学生がこの講義に、しかも、あの自分でも本当にマニアックと思う私の論文を読み込んで、完全についてきたこと。彼らは生-権力のいわば力動的唯名論的性格を理解する!もちろん、力動的唯名論どころか唯名論なんて言葉も講義では使わない。私は具体的事例を用いてそうした内容を語るだけなのだが、彼らはその講義を私だったらこうまとめるだろうという形でまとめるのだ。彼らはだから、生-権力を国民国家他のいかなる実体的な権力とも同一視しない。よって、生-権力に対抗するためにリベラリストのフリもしない。彼らは、それが国家vs個人といった概念対を超えてむしろこの概念対を有効化するものであると、それが私たちが言葉を語るその語り方の中にのみ位置づけられると、ちゃんと理解している。学部学生がここまで理解できるのかと答案を見て信じられない思いだった。

しかも、予想に反して1年の方が2、3、4年に較べて全般的に出来が良かったのも意外だった。1年の方が勉強するということもあるかもしれないが、どうも、 2、3、4年の真面目に講義に出ているような学生は、中途半端な知識が邪魔をして、私が話すことがストレートに頭に届かないという印象を答案からは受けた。一般的な‘the 社会学’の下らない知識はない方がよいらしい。下らない知識が入る前にこちらの知識を入れてしまえばいいんだ。「鉄は熱いうちに打て!」。

まあ、学年を問わずトンチンカンなことを書いている、つまり私の言っていることがよく分からなかった学生もたくさんいたので、講義のできとしてはあまりよくないのだろう。来年は受講者が減るだろう。でも、一部学生は引っ張ればここまでできるのだと改めて思い知らされた。恐らく、こういう学生にとっては、大方の講義(私の別クラスの講義も含め)は、随分‘ぬるい’ものと感じることだろう。この大学を称して「学生1流、教師3流」とか「優秀な学生は授業に出ない」とか言われていた(いる?)が、これには理由があるわけだ。3流がよってたかって1流の可能性がある人間を3流にしてしまう社会的装置というところだろうか。そういう装置の一部にはなりたくない、けど、すでになってしまっているんだろうなあ。努力します。