飛蚊症・ライル・サッカー

9月下旬に網膜裂孔+飛蚊症となり、10月初旬にレーザー固定手術。レーザーで網膜の穴をかがって網膜の穴が広がる心配はないらしいが、飛蚊症自体はこれで直るわけではない。一生このまま、後は慣れるしかない。数年前に右目が同じ症状になったが、今回は左目。しかも、今回は糸くずが浮かんでいるだけでなく、白いにじみが浮いている。視線上にそのにじみ部分が重なるとかなり明度が落ち広範囲にぼやける。曇った眼鏡をかけている感じと言えば一番近いかもしれない。これのおかげで目がとても疲れる。9月末に較べれば随分改善したが、相変わらず1時間も車の運転をすると目が痛い。活字はなおさらである。1時間ほど活字を追っていると、左右とも目がギシギシ、ゴロゴロする感じで痛い。学者生命も終わりか? 大した生命じゃないけど。 とてつもなく憂鬱である。

サッカーでも見るか(サッカー1ゲーム程度であると見ることが出来るのは救いと考えるべきなのだろう)、ぼーっとしているかしかない。ぼーっとしながら考えた。


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ゼノンのパラドクスは一般的には、有限性を特徴とする経験世界に無限という概念を忍び込ませることで生じると言われている。半分の半分の半分の・・・と距離(長さ)は「無限に」分割可能だ、とすると、いつまで経っても飛ぶ矢は的に届かないということになってしまうではないか!、という具合に。しかし、ライルは『ジレンマ』の中でこの説明を退ける。ゼノンのパラドクスが語っているのは「さらに半分にすることができる」ということ、つまり次のオペレーションが可能ということだけで、ここにはとりわけ無限の概念が関与しているわけではない、と。

では、ライルはゼノンのパラドクスをどう解釈するかというと、このパラドクスは二つの言語使用を不用意に重ね合わせたその結果だ、というものだ。つまり、ゼノンのパラドクスは、まず飛ぶ矢がある距離xを飛んだという認定から始まる。ここには日常的言語使用がある。だが、ゼノンのパラドクスではこの言語使用に、「xを半分に分けて、さらに半分に分けて、さらに・・・」という厳格な論理的言語使用が重ね合わされる。議論の出発点であった距離 xが最終的に消失するというパラドクスは、二つの言語使用の「間」で生じるのだ、と。(『ジレンマ』は、ライルが様々な二つの言語使用の「間」で生じるジレンマを解きほぐすという本だ。)

社会学にある多くの方法論的問題というのは、このライル解釈のゼノンのパラドクスに似ている。

例えば、社会学者の中には「全体」という概念に方法論的に悩んでいる人がいる。それは研究者の超越性を前提としており維持しがたい、しかしそれを前提にしないと研究が立ち上がらない、パラドクスだ、と(中には、このパラドクスを逆手にとって、フーコーはこのパラドクスを軸に思考を展開発展したのだとフーコー解説をしてくれる者までいる)。恐らく、この悩みの質を簡単に説明するには、ライルの議論を利用するのがいいと思う。つまり、我々は日常的言語使用において、様々な場面の様々な活動の中で、全体というものを把握している。ライル流に言えば、我々は全体というものを方法的知識として把握しているわけだ。ところが、これに、一部の‘あまりに論理的すぎる'社会学者は、レリヴァンスを欠いた論理の網をかぶせようとする。これが全体というものを謎としてしまうのだ。恐らくライルであれば、全体という概念に悩む社会学者に対して、次のように言うと思う;「君たちは全体を知っていたはずだ。それを知らなければ、それを名指して議論を始めることすら出来なかっただろうから。その全体という概念をとてつもないパラドクスに仕立て上げているのは君たちの過剰な論理的操作ではないか?」と。(私としては、フーコーはこんなパラドクスに囚われていた人間では断じてないということは強く言っておきたいところだ。)

しかし、社会学の中では、なぜか、自らの論理性のレリヴァンスを考えない過剰に論理的な人間が大きな顔をしている。かつて私はこのレリヴァンス能力を欠如した人間たちの活動を「The 社会学言語ゲーム」と呼んだが、我々はこのマッチポンプ言語ゲームにいつまで付き合わねばならないのだろう?


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・・・などということをぼーっとしながら考えた。ますます憂鬱になった。サッカーを見よう。その方が精神衛生上はるかによい。