リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』コメント3

1 シュッツ、あるいはプロトEMについて(続々)
3;認知主義
では、シュッツはいかに間違えたのか?(いかにその教えは覆されたのか?)

リンチが見るところ、それは、彼がカウフマンに由来する認知主義的な(表象主義的な、解釈主義的な)科学観を持っていたから。カウフマン-シュッツにおける科学観は以下に書いてある。

p161
さらに,シュッツにとっては,科学の統一は知識のコーパスと1組の手続き的規則とを参照することによって特徴づけられる,ということが事実であるだけではない.日常的社会的世界「一般」もまた,「手持ちの知識のストック」と,そうした知識を実践的行為や社会的相互行為の諸状況に応じて用いていくための1組の認知的規範とを参照することによって特徴づけられる

つまり図式化すれば;

 知識ストック→→(認知的規範によって状況へ適用)→→理解/実践

シュッツの場合、この科学観は日常生活世界の理解/行為の図式でもある。「知識ストック+認知規範」が理解/行為を産出するという点では、科学も日常世界も、同じである。

ここで、表象主義、認知主義、解釈主義(どう言っても同じだ)がある種の超越性(「語る主体」とか「超越論的シニフィエ」とか呼ばれていたもの)、つまりある種の科学主義を前提にしているということ、このことはデリダに限らずフーコーなどにおいても――デリダらの記号論批判は言うまでもなく、まったく議論の仕方は違うがフーコーの「有限性の分析論」の考古学など――、60年年代末のフランスポスト構造主義の前提認識であったことを想起すれば、こうしたシュッツにおける認知主義的な科学観を、科学(優越)主義と呼ぶことは十分納得できる。*1

これをベースにすれば;トピック(主題)とリソース(資源)の区別がなぜ問題なのか?、自然科学、社会科学の世界を「思考の世界」(「実践の世界」でもいい)とすることがなぜ問題なのか?、分かる。そうした表現は認知主義、あるいは知識(思考)と実践の区別から導かれるものだから。言うまでもなく、リンチとしては、知識(思考)は局域的な実践と内的関係にあると主張したいから。*2

重要なのは、リンチはトピックとリソースという区別、科学と生活世界という区別を使ってはいけないと言っているわけではないということ。むしろ逆に、リンチが言いたいのは、EMはこうした認知主義に由来する区別を解明対象を語るために、その主張を組み立てるのに、使わざるをえないということ。つまり、「社会学で研究される実践的行為の領域の「外側」に理解可能な理論的立場はありえない」という言明は、認知主義的な区別[知識-実践]を利用した、それゆえパラドクスを背負った言明なのだということ、このことをちゃんと知っておけ、ということなのだろうと思う。

p175
この教えは,ガ-フィンケルとサックスの論文の最初の数行に示唆されている.すなわちそれは「素人であろうと専門家であろうと社会学をする人にとって自然言語は,その人の研究の環境,トピック,リソースとして役に立つ.この事実によって,その人の研究のテクノロジーやその人の実践的社会学的推論に,そゐ環境,トピック,.)ソースが与えられている」というものである.ガ-フィンケルとサックスは,超越論的還元や,同様に大胆な認知的作戦を推奨しているわけではまったくない.彼らは,社会学者そして同様に「メンバー」によって住まわれている言語と実践的行為の領域からの「方法論的」超越はありえないと言っていると読める. ガ-フィンケルとサックスは,社会的行為の構造(あるいは諸構造)に関心を持たないし,同様に,構造の問題を完全に放棄しているのでもない.そうするよりもむしろ,彼らは一時デリダが「構造の構造性」と呼んだものに着目し,そうすることで人間科学の関心事内にある構造的な記述と説明の関連性を「置き換え」ているのである*3. そのような置き換えは,それ自体では,研究される行為の領域から「退く」ことではなく,またそうではありえない.それは,超越ではない.

そこで、次のような記述が来る。

p176f
私たちは,話す時にはいつでもトピックとリソースを「混同」し,書く時にはいつでも構造を「物象化」し,行為する時にはいつでも「メンバーと同じになる」のである.社会学的方法すべてが実質的な「エスノメソッド」であると主張するのは,分析的立場の中でもっとも強力でもっとも包括的であることを含意しているように見えるかもしれない.しかしそれと同時にそのような主張は,人間科学の言説の中で想像しうるもっとも弱く,もっとも周辺的で,もっとも消極的な立場なのである.・・・

混乱をもたらし,逆説的でさえある,トピック/リソースの区別の含意は,まず次のことを想起することで整理できる.すなわちエスノメソドロジー的無関心は,メンバーの方法が精密さ,有効性,厳密さ,予測可能性を常に欠いていることを含意しないということである.したがって,社会学がその日々の手続きにおいて常識的方法に依存しているというエスノメソドロジーの主張は,必ずしも批判的含意を持つわけではない.そうした批判的含意が意味をなすのは次のような場合に限られる.すなわちシュッツによる日常生活の態度と(シュッツが定義するように,フッサールの超越論的還元によって合意される「態度」に奇妙にも類似している)科学的理論化の態度の対比が保持される場合,あるいはシクレルが行った,社会科学における実際の方法と,文字どおりの記述という「まがいの」立場のレトリカルな対比を真剣に受け止める場合に限られるのである). こうした対比は,ブリコルール(ブリコラージュを行う人)と技師というレヴイ-ストロースの区別に類似している. この区別は,実験室という仕事場の実践のブリコラージュ(器用仕事)を記述してきた科学社会学者およびエスノメソドロジストによって用いられ(また,その根底を覆され)てきたものである.・・・.デリダが指摘しているように,技師が「神話である」とわかると,ブリコルールと技師の対比は最終的に崩壊するのである.

なお、リンチは「弱い」という表現を決して否定的な意味で使っていない。その肯定的な含意については、本書最終文を参照。(本書最終文がこの「弱い」ことの意義を強調するものであることからも、この「弱さ」を理解することが本書にとって非常に重要ということが分かるだろう。)

p369
これは――方法論的な基礎づけがなく,科学的権威に訴えない研究であるから――絶望的に「弱い」立場だと初めは思えるかもしれない.しかし, 私が論じたいのは,すべての社会科学,人文学領域で起こっている統一科学の考え方への疑問に照らし合わせれば,このことこそがまさに必要とされているのである.

つまり自分が方法論的基礎を持たない、科学的権威に訴えない「弱い立場/寄生的な立場」だということの中にEMが存在しているということの強さはあるのだ、ということ。このことを忘れて、EMは‘自律した’一個の学問科学であるように考えてはいけない、ということだろう。



4;結
シャロック&アンダーソンのシュッツ論=現象学論は1991年に出ている(「EMと人間科学」所収)。リンチは彼らの(シュッツをEM的地平を切り開いたパイオニアと位置づける)議論を知った上でもまだ、デリダを利用して言いたかったことがあるのだ。そして、リンチがデリダを利用して言いたかったのは結局、EMは寄生的で弱い立場にあるということなのだろうと思う。リンチのこうした主張の含意を、EM者はもっと真剣に考えるべきではないだろうか?

*1:この辺りのことは昔論文として書いたので詳しくはそちらをどうぞ。

*2:IKYさんは「ローカルな場面における知識の組織化」を解明する必要があると言ってましたけど、これはむしろリンチの主張そのものですね。どうもあのシンポは、(司会のURNさんも指摘してましたが)「それ、まさにリンチの主張でしょう、リンチは否定しないでしょう」という主張をしてリンチを批判する発言が妙に多かったのが印象に残りましたね。

*3:この「置き換えdisplace」はデリダ的に「ずらす」と訳すべきですね。