リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』コメント4

2 会話分析について
1;基本的確認
リンチの会話分析批判ははっきり言ってよく分からない。最初の内は、会話分析の全面的批判のように威勢よく始まりながら、だんだんトーンダウンしていって、結局次のような記述を読む羽目になる。

p297
エスノメソドロジーとの歴史的な近さを考えれば,会話分析的研究の蓄積を無視する理由はないのである.むしろ重要なのは,それで何ができるか,である.

「さんざん議論してきて結局これだけですか?」という気にもなる。

しかし、リンチが本書以降、会話分析批判を延々と(断片的ながらちくちくと)行うことになるのは有名で、しかも会話分析陣営からその批判を完全黙殺され、とうとう自分で会話分析はどうしてEMなのかとか書いてしまったのも有名な話である。変な人である。

このままではリンチは単に変な人なので、何か理由があるのだろうと考えて読むしかない。

本書でリンチが会話分析批判の文脈で拘っているのは、会話分析の科学としての身分を論ずるサックスの議論を修正すること。リンチのサックス批判は以下の部分に集約されている。

p295
科学が存在しているというまさにその事実をもとに,自然な観察科学としての社会学が可能であるとサックスは考えていた.しかし今や,方法について別の考え方が浮かび上がってくる.すなわち,発見についての説明はその発見を再産出する作業に照らして妥当になるのだが,そうした説明と作業の妥当性は学問的専門母型に対して相互反映的な関係にあるという考え方である. ここで重要な点は次である.説明可能性の構造は各学問分野のローカルな実践や現象に切り離しがたく結びついている.したがって科学実践を「人間行動」の形式的説明によって適切に記述できるなどと考えることはできない.しかし他方,しかるべき能力と資格を備えたメンバーにとっては,発見についての説明はその発見を反復する仕方の説明となりうるのである

このリンチのサックス批判の要点は、ライルが『ジレンマ』の中で言う「ペンチを使うことは指に依存している(誰も指が能率が悪いからと言ってそれをペンチに置き換えようとは言わない)」という例え話に引っかけて言えば、指の使用法をペンチの使用から独立に説明する観察科学が成り立ちうると考えるならそれは間違いだということだろうと思う(ペンチだと誰でも使えるから、ペンチをiPS細胞とかに置き換えた方がいいかもしれない)。そうした説明はペンチを使う場面でペンチを使う能力を持った者にとってはペンチを使う指の使い方としての説明となるのであって、そうした場面、そうした能力から独立して、指の使い方の説明があるのではない(だが、サックスはそう考えている)と。

リンチは、サックスのこの勘違いが会話分析においては修正されていない、体系的に維持されていると考えているように思われる。会話分析は科学として一個の独立した学問体系を構築しうる(つまり会話分析は「寄生的な」ものではない)という誤解を。