リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』コメント5

2 会話分析について(続)
2;固有妥当性要請
このリンチの論点は結局のところ、会話分析においては、記述/説明は対象となる実践と内的関係にあるということの把握が甘い、簡単に言えば、ガーフィンケルが言っていた「固有妥当性要請」が欠けている、と言い換えられるだろう。

ガーフィンケルの「固有の妥当性要請Unique Adequacy Requirement」に関して、リンチは(ガーフィンケル自身の理解をも超えて)重要な指摘をしている。それは、固有妥当性要請は「個々の科学分野における「核となる活動(core activities)」を取り戻すための方法」(p357)と解釈されるべきではないということ。「核となる活動」などないから。

p348(第7章)
ガーフィンケルの「方法の固有の妥当性要請」は,エスノグラフイー的分析の必要条件として研究対象の領域を学ぶべきだという忠告として理解されるべきでない.これはグランドセオリーや思弁 的批判の特権性から離れるように警告するものだが,私の理解するところによると,この要求が関係するのは,ある記述が実践について述べていることの例証をするのに,その実践の現象領域へと読者を入り込ませて理解させる方法なのである.

例えばリヴイングストンが数学の証明における表記(notation)の役割について述べていることは,証明文や一連の教示インストラクションを読者に提供することによって例証される.リヴィングストンの議論は読者の作業と結合している.〜〜〜〜〜

それゆえ,観察,測定,説明といった認識トピックにとっての課題とは,読者が観察,測定,説明を行えるように――少なくとも代理的に,他の人の達成が詳細に精赦化されて,それについていけるように――することで,その適切な遂行を検討できるような練習課題を構築することである.

つまり、固有妥当性要請は「ある科学分野の核となる知識へとその科学に精通することで接近せよ」などという要請ではない。そうではなくて、簡単に言えば、それは「読み手との知識落差がある状況に適切に対処せよ(そして論文を書け)――そういう苦労をしろ」ということだ、と。科学的活動のどこでどのように日常的な実践が運用されているのかを示すには、その科学的活動を「最低限」理解していなければならず、かつその理解を読み手に共有してもらわねばならない(だから、それは現象領域に読者を入り込ませる、練習課題を構築することということになる)。論文の書き手(EM研究者)はそういう苦労をしろ、というのがリンチが理解する固有妥当性要請というものということになる。