リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』コメント6

2 会話分析について(続々)

3.会話分析への疑問

リンチが会話分析に対して言いたいのは、「固有妥当性要請を無視して、‘科学的活動の'日常的基礎を記述できるはずはなかろう」ということなのだと思う。

リンチの語る固有妥当性要求の主張は、会話分析のオーソドキシーから外れている。会話分析は、基本的に読み手の直観的理解を論文作成の資源として利用するから。そもそも会話分析におけるトランスクリプトの意義は、論文の書き手と読み手が共通して利用できる資源の呈示という点にある。例えば、トランスクリプトによって書き手も読み手も反復的にデータを検討できるとは、会話分析が延々と繰り返して主張してきたことだろう。

会話分析が単純に日常的活動の日常性を記述している分には何も問題は生じない。でも、会話分析が専門的知識/科学的知識の領域に踏み込もうとするとき、会話分析のオーソドキシーは通用しない。「ワークのEM」が、会話分析から分離され、それと名指される理由はこの点にあるのであって、それゆえガーフィンケル-リンチの固有妥当性要請はその識別線となる。

こうした固有妥当性要請に関するリンチの主張を私は正しいと思う。だから、私の疑問はリンチのこの主張から20年経った現代のEM、会話分析は、リンチの語るこの固有妥当性要請にどれくらい応答しようとしているのか、肉薄しているのか、ということ。(リンチの語ることが間違っていると思う者は、こうした疑問がナンセンスだという理由を示して欲しい。)

疑問1
最近「専門知識/科学知識のEM」と名付けうる研究は多い(ように思われる)が、固有妥当性要請という観点から見ると、疑問に思うことがある。それは、そうした研究がその対象フィールドとして、「素人」がいるフィールドを選ぶ傾向があるように思われるから。例えば典型的には「医者が患者を診察する」といった場面。そこには患者という素人(非専門家)がいる。

だが、例えば「医者が患者を診察する」といった場面を記述する場合、固有妥当性要請を誰よりもまず先に考えているのは、実は、そのフィールドにいる「医者」ではないか? テキストの読み手(聞き手)との知識落差を考えて、自らのテキスト(発話)を練習問題、個別指導/チュートリアルとして、構築しようとするのは素人(患者)に直面している専門家(医者)であろう。この状況で、日常的方法の説明は可能だと言われても、もうすでに専門家が知識落差を解消して、すべてを日常性に落とし込んでいるのだから、それは当然だろうという気もする。*1

p365
「科学について語るのをやめよう! 実験室に行こう―― どんな実験室でもいい―― しばらくそこをうろついて,会話を聞き,技術者の作業を見て,技術者に自分がしていることを説明してもらい,その人たちのメモを読み,データ検討時に何を話しているか観察し,装置をどう動かしているか見よう。

リンチはまさに「実験室に行けGo to a laboratory」と言っているのであって、そしてそこでやってみろと言っていることからしても、実験室と診察室はそのポテンシャルにおいて大分違うと思う。

無論、これは診察室のEMはナンセンスだと言っているのではない。固有妥当性要請は決してEM者独自のものではないと考えることがここでは重要だと思う。(MEDさんも質問の中で言っていたことだが)固有妥当性要請は様々な活動の中でトピックとなり、またリソースともなる(診察室で医者は固有妥当性要請に応えることを課題として掲げもするだろうし、かつ固有妥当性要請を自らの活動の資源として使用しもするだろう)。そうした活動を記述するEMがあってもよい。しかし、それはリンチが求めていることとは異なるだろうということだ。

会話分析はこうしたことをどれほど意識的に処理しているのだろうか?*2

疑問2
例えば、固有妥当性要請に応えようとするとき、トランスクリプトはどのような意味を持つのか? 「練習課題の一部として」「個別指導/チュートリアルの一部として」という回答が予想されるが、このようないわばトランスクリプト概念の変化は、論文内でどのようなトランスクリプトの使用法の変化として現れるのか?(現れているのか?)――概念の変化が用法の変化であるなら、トランスクリプト概念/用法はどう変化する(した)のか?

会話分析は(上でも触れたが)かつて延々とトランスクリプトの意義について語ったと思う。それは会話分析の重要なポリシーの一部をなしていたはずだ。専門家/科学者の活動を研究すると言うとき、トランスクリプトはいかなるポリシーの下に現れるのか? 最近新しいトランスクリプトの意義を主張する論文などまったく見ないが、これは議論されているのだろうか?

ただ、これは会話分析に限定される問題ではない。相変わらずトランスクリプトに拘りを見せるEM者は多い。自分が単純に昔通りの会話分析的作法の延長でトランスクリプトを掲げているというのなら、過去の遺産である議論を覚えておけばよい。だが、リンチの固有妥当性要請に応えようというのなら、そうはいかない。トランスクリプトに関するこの問題は会話分析に限らず、トランスクリプトに拘りを見せるEM者全般が答えるべき問題ではないだろうか? 無論この疑問に一般的回答などないのかもしれない。だが、リンチの言う固有妥当性要請に応えるには、少なくともトランスクリプト概念/用法の変化に意識的である必要があるように思われるが、この点、現代のEM者は十分意識的だろうか?




4.結
会話分析に対するリンチの批判は確かに明瞭ではない。だが、少なくともリンチの議論が、会話分析、そして現代のEMがいまだ答えていない(あるいは上手く答えられない)問題を提起していることは間違いないように思われる。

リンチが語るEMの魅力が面白い。

p355
エスノメソドロジー的アプローチの魅力は,おそらく,ある学徒(もしくは数十年の学問研究の熟達者)が自身の探究の袋小路に陥ってしまったときに,おそらくもっとも明確に認識することができる.例えば,科学の研究者が,その分野の議論が実在論構築主義の間の終わりなき同種の議論に戻り続けるやり方に嫌気がさしたとき.計量社会学者が技術的な洗練をどんなに積み重ねても測定尺度と社会現象の有効な対応の問題は満足いくようには解決されないだろうと結論づける地点に至ったとき.「ディスコース分析」をする研究者が「記号」と「意味」に関する古典的定義ではテキスト分析を試みる際に実質的な手引きにならないことに不満を覚えるようになったとき.会話分析の支持者がこの分野での最新の知見が,この領域がかつて提起したことと比べると先がないようだと結論づけるとき,である

リンチの言うEMはつくづく逆説的だ。リンチによると、EMを学ぶことから学問キャリアを始めてもEMの魅力は分からない、らしい。EMの魅力は学問の限界で発見される。リンチが言うように、会話分析の「最新の知見」がもうかつてのような魅力を失って「先がない」ものとなっているかどうかは分からないが、リンチの議論がどこか新鮮な魅力あるものに感じるのは、もしかしたら現代の会話分析に限らずEMそれ自体がある種のオートマティズムの中で業績を生み出す体系的学問となっているからかもしれない。

*1:意地悪な見方をすれば、患者のような「素人」がいるフィールドの選択は、固有妥当性要請が要求する努力を回避しようとする考案ではないか?、なんてことを考えたくもなりますね。

*2:こう考えてくると、これはシンポの後札幌で飲んでいるときにAKYさんとも話したことですけど、最近目にする「会話分析ベースのワーク研究」ってのは一体何だろう?、まず会話分析的に隣接対とかを同定しておき、これに身体動作を重ね書きしてゆく、で、最終的に、会話と身体動作は絡み合って相互行為の進行に寄与しているという結論に落ちてゆく議論、あれは一体何だろう?という疑問が出てくるのは、もっともですよね。リンチはこうした「ワーク研究」をどう評価しているのでしょうね? 90年代「制度的会話分析」というのがあって、今は消えてしまったようですけど、「会話分析ベースのワーク研究」は10年後生き残ってますか? 会話分析家はなぜ「制度的会話分析」が消えてしまったのか、真剣に反省しているのでしょうかね?