リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』コメント番外

今回のコメントの要約めいた原稿を書きました。EMCA研ニュースレターに掲載されるとのこと、興味のある方はお読み下さいませ。(ちなみに、このブログで紹介した文章がいかに散漫か思い知らされました。いかんせん、ほぼ3日で書いた文章です(飛行機内、ホテルでの執筆を含め)。お許し下さい(>関係者各位)。)

で、その原稿を書きながらまた散漫に考えた。


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1
自分がリンチのことを好きなんだということに改めて気づいた。
「全日本リンチ好きランキング」なんてのがあったら、5位辺りにはランキングできそうな気がする(ランキング1位はもちろんnkmrさん)。
でも、気づいたことでもっと重要なのは、このランキングにエントリーしてるのが全部で5人くらいしかいない(らしい)!、ってことなんだな。
結局、自分がリンチ好きということを実感したのは、みんながリンチを大して好きではない(なかった)のだということを実感したということの裏返しで・・・。
さみしい。

2
EMとCAの包含関係は逆転しているのではないかとつくづく考えさせられた。
かつてリンチは「どうしてCAはEMなのか?」を考えたが、今真剣に考えるべきは「どうしてEMはCAなのか?」であるように思われる。

恐らく自分自身の専門研究カテゴリーとして、「CA」ではなく「EM」というカテゴリーを選択する研究者は一定数いるだろうし、また、「EM/CA」というカテゴリーを選択する研究者も一定数いるだろう。
しかし、自分がいかなる点でCAではなく、EMあるいはEM/CAというカテゴリーを選択するのか、説明できる研究者がどれだけいるだろうか?
自分のポリシーを説明してみるがいい――それはCAのそれと最初から最後まで同じではないか、むしろCAによって精緻化されたものではないか?
自分の経験的な研究業績を示してみるがいい――それはCAの業績とどう違うのか、むしろCAの業績だと言ってもまったく問題ないのではないか?(「会話以外の身体動作も(ビデオ撮影とかして)考察している」なんてCAをバカにした言い草だ)
CA以外のEMを説明することも、行うこともできない者が、なぜあえてEMを名乗るのか?
CAの他にEMを付け加えるのは、実は「EMの中からCAは生まれた」という歴史(学史)の尊重の身振り以外に何もないのではないか?
現在は、EMを主導しているのはCAではないのか?
「自分の専門はCAである」と端的に名乗ることの方が、今、ずっと知的で、ずっと潔かろうという気がする。

個人的に自分はずっとEMというカテゴリーに相応しくないと思ってきたが、もしかしたら今や、自分こそ(リンチが語る意味での)EMというカテゴリーに相応しいのではないかとか思えてきた。