思想史と歴史的存在論

(夜9時に真っ暗になったある地方都市のホテルにて)

思想史と歴史的存在論の違いを何度も口頭で言い、論文まで書いてるのだが、延々と理解されない。言い方、書き方が悪いのだろうか。「内ー外を前提とする問題を問うのではない。内ー外の境界管理boundary-workが問うべき問題だ」という程度ではまるでダメである。その度に落ち込む。徒労感に襲われる。

例えば、会話が展開するためには様々な前提(概念)が必要なのは言うまでもない。その前提(eg概念x)を過去に遡及して、z→y→xという経緯を経てきたと言うことはできる。だが、この問題設定は一つの先行する問題を取り逃がしている。それは、その会話がその前提を前提として動員する方法とは何かという問題だ。この方法あってこそ、前提は前提として会話の中で機能するはずではないか。会話の秩序は会話の中から管理されている。会話の境界管理、その方法こそまず問われるべき問題だろう。

こうした問題の区別は会話分析を知る者にとっては初歩的認識だろう。なぜ、これを、会話分析に精通する者が、フィールドを歴史に移すと途端に考えることができなくなってしまうのか。同じではないか。なぜ同じように考えることができないのか。フーコーは、「会話の秩序」と言わないで、「諸科学の統一性」と言葉を少し変えて言っただけではないか。会話分析は会話の秩序を分析する、同じように、歴史的存在論は諸科学の統一性を分析する。ただ、これだけではないか。頭、固くないですか。

「会話分析と歴史的存在論は記述様式においてまったく異なっているではないか。フーコーもハッキングも歴史を通史的に、あたかも思想史のように語っている。これは以上の説明と一致しない。」

重要なのは、ある前提を動員する方法、境界管理の方法をまず考えておくことなのだ。この方法を考えることは、必然的に、歴史の中に散らばる様々な事実を、統一性に対するレリヴァンシーという基準によって、整序することになる。ある科学の統一性にすべての事実がレリヴァントであるわけではない。ある事実はレリヴァントだが、別の事実はレリヴァントではない。それはその科学自体が選別する。こうした整序さえ確立できたなら、レリヴァントな事実を順序立てて記述していくことに何の問題があるのだろうか。無論、これは必然の記述法ではないかもしれない。しかし、そうしなければ、その記述の読み手の理解可能性を確保することが限りなく難しくなるのはほぼ間違いない。恐らく、フーコー、ハッキングの記述法は歴史をフィールドとしたとき、ガーフィンケルーリンチが言う固有妥当性要請に応えようとする一つの技術なのだと思う。*1

なぜ歴史の中のある現象を実験室のように考えてはいけないのだろうか。何の問題があるのだろうか。「歴史的現象の中に行こう―― どんな歴史現象でもいい―― しばらくそこをうろついて,会話を聞き,人々の作業を見て,人々に自分がしていることを説明してもらい,その人たちのメモを読み,データ検討時に何を話しているか観察し,装置をどう動かしているか見よう。」と言ってみたい。

*1:こうしたことを、ある飲み会である人間に言ったところ「苦しい説明ですねぇ」と返された。「苦しい」のは君の理解力だろうと思ったが、言ってもしょうがないことはいつの世の中にも存在する。フーコーやハッキングの名前と無関係な研究者になって下さい。